媚薬の話

 ソーンズとエリジウムの性行為は、基本的に二人の快楽と安全と、そして何より満足感が優先される。お互いに恋情や愛情が性欲に直接結び付く性質ではなかったので、するならするで妥協はしないと決めたのだ。
 とはいえ最初から満足できる行為ができていたわけではない。元々キスやハグといった接触を伴うコミュニケーションは好んでいたので、性行為もすると決めたら心理的な抵抗はさほどないまま始まって終わったが、同性同士、さらには種族の違う相手との行為に戸惑って、満足よりも行為が無事終わったことへの達成感の方が勝ってしまうようなものだった。
 だから初めての行為の後、エリジウムは喉の渇きを水で癒しながら「もっとうまくできそうだよね」と口にした。彼の言葉にもそもそとシリアルバーを食べながら、ソーンズは無言で頷いた。そこからはバカみたいな、しかし真面目な議論と研究が始まった。二人ともどちらかといえば凝り性で、仕事も遊びも真剣にやればやるほど面白いと思う性質である。加えて新しいことを積極的に試してみるだけの冒険心も持っていた。故にエリートオペレーターと特殊行動隊の第三小隊隊長補佐という忙しい身分でも、それらの議論と研究は滞りなく進み、効果は目に見えて現れた。
 ——現れてしまった。
 二人が予想していなかったのは、想像していた以上の快楽が得られたことだ。
 うっかり快楽の閾値を超えてしまった行為の後、二人はぐったりとしながら反省会を行った。何事も過ぎたるはなお及ばざるがごとしと言う。アドレナリンがとめどなく溢れて止まらなくなるかのような感覚は、満足感より恐怖心に近かった。戦闘行為におけるトリップ状態を知っていたからなおさらだ。
 故に二人の性行為に関する研究はそこで一旦の終わりをみせて、ほどほどのところで止めるのが一番という結論がついた。その後は性行為で快楽が恐怖心に変わる一線を越えるようなことはしなかったし、しようとも思わなかった。
 だのにソーンズが催淫剤を飲まされた。
 
 
 
「怒っているのか」とソーンズは聞いた。
「当たり前じゃないか」とエリジウムは告げた。
 アーミヤの付き人として訪れた貴族の食事会で、ソーンズが得体の知れない薬を飲んだのは数時間前のことだった。
 エリジウムは参加していないので後から聞いた話になるが、立食の仮面パーティであったらしい。ロドスとしてはあまり距離を縮めたくはない、さりとて無視もできぬ相手からの招待だった。それでも普段なら会場までの距離を理由に断ることも出来ただろうが、ロドスが偶然その貴族の屋敷近くに滞在していたから厄介だった。ドクターとケルシーは他に外せぬ用事があり、仕方なくアーミヤと、幾人かのオペレーターが彼女の付き添いとしてパーティに参加した。ソーンズが選ばれたのは、彼の貴族は毒を使う傭兵を雇っていることで有名であったので、もしものことを考え毒を以て毒を制する意図があったのだろう。
 実際、アーミヤが彼の貴族から差し出された酒には未知の薬物が入っていた。
 その酒は、もうパーティも終わるだろう時間に差し出された。共にパーティに参加したハニーベリーによると深く青い色をした酒で、手渡した貴族は相手がアーミヤとはっきり認識していたという。彼女の特徴的な指輪を見ていたと。
 当然アーミヤは警戒し、グラスを受け取ることを躊躇した。しかしホスト直々に差し出された酒だ。受け取らぬことは失礼になる。仕方なしに彼女は意を結したが、その手を遮って「未成年の飲酒は製薬会社として許可できない」とグラスを奪い、代わりに。と飲み干した者がいた。
 ソーンズだった。
 結果から言えば、飲み干した酒に入っていたのは命を奪うような毒ではなかった。しかし楽観視できるものでもなかった。これはロドスに帰艦後、ソーンズから症状の聞き取りを行なって分かったことだが、酒に混ぜられていたのはいわゆる催淫剤と呼ばれるものだった。使いようによっては人の尊厳を奪う薬だ。
 酒を飲み干した後、ソーンズはすぐさま人目を忍んでトイレに駆け込み胃の中のものを吐き出した。そしてハニーベリーと合流し、こっそりとアーツによる治療を施したが、他人の敷地内であれば出来ることは限られる。幸いパーティはその後すぐにお開きとなり、彼らはロドスへと戻ったが、最初のうちは大人しく治療を受けていたソーンズも、時間が経つほどに他人を自分のそばから遠ざけ、最終的に己の部屋に引きこもった。
 休暇であったエリジウムが、隊の仲間たちと買い物から帰ってきたのはソーンズの部屋の扉が固く閉まった十数分後であった。
「ちょうど良いところに」
 自室に戻ろうと宿舎を歩いていたエリジウムを見てドクターは言った。「エリジウムって、ソーンズの部屋の鍵開けれるよね」と。
 その言葉にエリジウムは首を傾げた。
 確かに長期任務の間に空気の入れ替えだけでも頼めるようにと、宿舎の部屋は各自の裁量で他人のIDカードを合鍵にできるようになっている。エリジウムの長期任務中にソーンズがエリジウムの部屋を任されているのは公然の事実であり、その逆もまた然りであった。しかしながら部屋の主人がいるのにドアを開けてくれとはただ事ではない。
「何かあったの?」
 エリジウムの問いにドクターはかくかくしかじかとことの経緯を告げた。告げられた途端に、エリジウムの表情がサッと変わった。
「ソーンズを怒らないでやってほしい」その表情を見てドクターは言った。エリジウムは目を伏せて首を振る。睫毛の影が頬に落ちて、彼の声はわずかに震えていた。
「怒ってるのはソーンズにじゃないよ」
 そしてドクターから薬袋を受け取り、エリジウムはソーンズの部屋のドアを開けた。ドクターは部屋の中に入らなかった。「大丈夫だと思うけど、もし気絶してたり呼吸がおかしかったらすぐに呼んで」と告げて、閉まったドアの向こうに立ったまま動こうとしなかった。
「ブラザー、入るよ」
 そう声をかけてから、エリジウムは部屋に入った。電気の点いていない部屋の中は真っ暗だ。ドアを閉めた後、電気をつけた。パッと部屋の中が明るくなる。白灯の下にソーンズはいた。彼はベッドの上で丸くなってシーツを被っていた。その白いシーツはソーンズが今作ることのできる精一杯の殻であり、戦闘時と全く違う様は痛々しささえ感じさせた。
 エリジウムは無理に殻を剥ぐことをせず「ドクターからお届け物だよ」と声をかけた。
「君のために医療部が知識と経験をもって練り上げた薬だって。せっかく作ってくれたんだから、早く飲まなきゃ失礼だよ。水は冷蔵庫の中に入ってたよね。開けて良い?」
 聞けば、ようやくもぞりと殻が動いた。
「……いつも勝手に開けているだろう」
 声は掠れ、熱っぽく、忌々しげな棘を含み。
「薬は」
 とソーンズが顔を上げた。眉間に皺がより不機嫌さを隠しもしない彼が、しかしエリジウムの顔を見て息を飲んだ。そしてわずかな逡巡の後、「怒っているのか?」とソーンズは言った。その声には先程まであったはずの棘が含まれていなかった。
「当たり前じゃないか」とエリジウムは応えた。
「君にそんな薬を飲ませたやつに、怒らないでいられるもんか」
 そう告げたエリジウムの瞳には、常にない強い光が湛えられていた。そのくせ少しばかり泣きそうに顔を歪めているのが、このリーベリの甘さを表している。
 ——彼に薬を飲ませた貴族は、ソーンズが酒を飲み干したのを見て、確かに笑っていたという。
 感染者にとっては、あるいはこのロドスに所属するものにとっては、見ていなくても目に浮かぶ光景だった。
 人を人として扱わず、その態度を隠しもしない。
 一体どちらが人でなしか。
 今回のことも彼の貴族はロドスとの関係を悪くするなどと少しも思っていなかったことだろう。ただそこに感染者がいて、面白そうな薬があった。それだけのことだと推測できることが屈辱的で、その理不尽さに怒りが湧く。
 ソーンズはエリジウムの言葉の何も返さず、ただ水を取ってくれ。と言った。エリジウムは言われた通り、冷蔵庫から冷えた水のペットボトルを取り出すと、蓋を開けてからソーンズに手渡した。
「薬はオブラートに包まなくて大丈夫?」
「必要ない」
 言って、ソーンズは薬袋から薬を取り出し口の中に放り込んだ。喉仏が上下したのを確認し、エリジウムはソーンズに問いかけた。
「他に何か必要なものはある?」
「適当な着替えを出してくれ」
 ソーンズの服は確認するまでもなく汗や他の体液で汚れている。彼は汚れたそれをいかにも億劫そうに脱ぐとゴミ箱に放り込んだ。エリジウムはクローゼットからいつもソーンズが寝巻きがわりにしている服を取り出して頭から被せてやる。
「……思ったより、意識ははっきりしてそうだね」
「そうでなければ上級理性回復剤を三本も消費した意味がない。……お前はまさか、理性を無くした人間に薬を飲ませるような無謀を試すつもりだったのか?」
「ドクターが部屋の前にいたから差し迫った状況じゃないとは思ってたけど……。でも、もしもの時はアーツを使うつもりでいたよ」
「それならいい」
 服を着替えてさっぱりとしたのか、ソーンズが大きく息を吐き出した。
「理性がないまま人を襲うのを許されるくらいなら、放っておかれた方が良い」
 ベッドに横たわったソーンズの額にかかった髪を払ってやって、エリジウムは小さく笑った。
「君を人でなしにさせるわけがないじゃないか」
 ああでも、このくらい理性が残ってる君なら相手をしてあげても良いよ。と告げれば、ソーンズが嫌そうな顔をする。ソーンズとエリジウムの性行為は、基本的に二人の快楽と安全と、そして何より満足感が優先される。ソーンズにとって、薬が切れていない状態での性行為は、ありかなしかでいえばあり得ない。
 だから「それなら薬が切れたあとに付き合ってくれた方が良い」と言った。
「実験でもするの?」
「この流れでセックス以外にあると思うか?」
「ないだろうね」
 エリジウムの手を掴み、ソーンズが指でするすると撫でた。そのまま好きにさせながら「君に薬を飲ませた貴族には、明日それなりの対応を求めるってさ」とエリジウムは告げた。当たり前の話であったので、ソーンズの反応は鈍かった。エリジウムは構わず口を動かして続ける。
「交渉に行くなら僕も一緒に行きたいけど、許可されるわけないか」
「俺の方が先約だろう」
「そうだけど、溜飲を下げたくなってもいいじゃないか。君が本当に人でなしになってたら、セックスどころじゃなかったんだから」
 その言葉を聞いて、しばらくソーンズは押し黙り、ひとつため息を吐いてみせた。
「やっぱりお前、怒っているだろう」
 エリジウムはただ笑った。その笑みを見たらなんだかどうでも良くなって、いよいよソーンズは目を閉じた。意識が深いところに落ちていく刹那、エリジウムがなにかを告げた気がしたが、ソーンズは聞こえなかったことにして眠りについた。
 快楽だろうとなんだろうと知らなくて良いことはたくさんあり、そして一度知ってしまっても、もう二度と一線を越えないように注意すれば良いだけのことだと、ソーンズは身をもって知っていた。













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