泣いている子供を見つけた。思わず足が止まった。動き出すのに一瞬の躊躇いを覚えたソーンズの横を、白い服を着た男が通り越した。
「どうしたの」
エリジウムだった。子供と視線を合わせるためにしゃがんで、涙が溢れ落ちる頬をハンカチで拭ってやっている。子供はしゃがんだエリジウムよりも小さく、着ている服は泥で汚れ、裾や首元がよれている。しかし決して仕立ての悪いものではなかった。ざっと見たところ転んだのか膝を擦り剥いているが、剥き出しの足や顔にそれ以外の傷はなく、少なくとも事件性は感じられなかった。そこまで確認してようやくソーンズは詰めていた息を吐いた。これならば近衛局に連絡すれば対応してもらえる。
しゃくりあげる子供の言葉をエリジウムは辛抱強く聞いている。その背中を見ながらソーンズはホシグマへと連絡を入れた。チェンやスワイヤーの顔も浮かんだが、あの二人はロドスの専用回線をこんなことに使えば眉を顰める。ややあってホシグマへ繋がり、龍門の商店街で泣いている子供を見つけたこと、親がそばにいないこと、そして詳しい現在地を教えれば、近衛局経由で近くにいる同僚に声をかけてくれるとの返答があった。
回線を切った頃には子供はすでに泣き止んでいて、エリジウムと一緒にソーンズをじっと見つめている。
「ホシグマさん?」
エリジウムが首を傾げた。ソーンズと同じことを考えたらしい。そうだ。と頷けば「ホシグマさんならもう安心だ」と子供に言った。龍門近衛局特別任務隊に所属するホシグマの名前など知らない子供が、それでもどこかホッとしたように見えたのは、この短い間にエリジウムを信頼できる大人だと判断したからだ。ソーンズにとってはうるさいばかりの同郷の『友人』だが、このリーベリのコミュニケーション能力は特筆すべきものがある。
十分ほどで連絡を受けた衛兵が到着する。と伝えれば、じゃあここで待っていようか。とエリジウムは子供に笑いかける。子供はこくりと頷いた。エリジウムはニコニコしながら口を開く。出てくるのはたわいもない話だった。季節の話、食事の話、植物の話、一見どうでもいい話だが、それらの話の間に子供の親や住居に関する質問が不自然ではない程度に挟まれる。まだ一貫した思考が難しく、語彙も足りない子供であれば、得られる情報は細分化されて繋ぎ目も不明瞭、横道に逸れたり突然関係のない話に飛ぶのは当たり前で、どこまで本当かも分からない。けれどエリジウムはそのことを責めなかった。
やがて得られた情報は積もり積もって山となり、エリジウムのわずかな質問で整理されて、要らないと思われる情報を切り捨てれば、側で聞いているソーンズでさえも、子供の名前、親の名前、家のそばに咲いている花や住居の屋根の色、家の窓から見えるものや、どうして一人でここにいたのかなどが理解できた。
それでももう少しほしい部分がある。というところで、エリジウムは話を切り上げた。エリジウムの視線が動く。その先を追えば、ソーンズが視認できるギリギリの距離に近衛局の制服が見えた。
「到着したようだな」
とソーンズが言えば、ああやっぱり到着したんだ。とエリジウムは応えた。見えてなかったのか? と聞けば、足音が独特だからね。と彼は笑った。ペラペラと喋り出した内容をまとめると、訓練を積んだ者は一般人とは違う歩き方をするので足音で分かるという。訓練先によっても異なると。
「君も、初めて会った時にわかったよ。至高の術を学んだ人が来たんだなって」
思わずエリジウムを見たソーンズに対し、彼の視線はまっすぐと近衛局の者の方へ向いたままだった。いつの間にか声の届く距離にいた近衛局の者をエリジウムが呼び寄せる。威圧的な姿をした大人に驚いたのか、怖々とエリジウムの後ろに隠た子供に苦笑しつつ、エリジウムは得られた情報を近衛局の者と共有する。共有された情報にはソーンズが必要ないと思ったものもあり、逆にソーンズが必要だと思ったものがなかったが、口を挟む必要性も感じなかった。
話が終わったのか、エリジウムが己の服を掴んだ子供の背を押した。不安そうに見上げる瞳に笑い、もう一度しゃがんで視線を合わせ大丈夫だと告げる。子供はしばしエリジウムと近衛局の衛兵を見比べていたが、やがて衛兵に手を差し出した。
「お兄ちゃんありがとう」
バイバイ。と手を振る子供にエリジウムも手を振り返す。子供は後ろ髪を引かれながらも、やがて町の雑踏に消えていった。
「近衛局に迷子の連絡が届いてて、多分あの子のことだろうって」
立ち上がり、裾についた砂埃を払いながらエリジウムが言った。子供はエリジウムに名前を聞かれて、シャオイー。と答えていた。シャオは小、炎国で年下の者を呼ぶ時に付ける接頭語だ。おそらく親類縁者が呼ぶのをそのまま覚えてしまったのだろう。
ソーンズが口を開いた。
「事件性がなくて良かったな」
最初に思ったことを、確かめるように告げた。エリジウムはひとつ瞬きをし、歩き出したソーンズの隣に並んだ。
「もしかして、警戒してた?」
「……」
ソーンズは応えなかった。ただ、エリジウムの言葉を脳裏で繰り返した。警戒していた。確かにそうかもしれない。泣いていた子供を見て思い出したのは、先日終わったばかりの任務のことだ。
エリジウムはそんなソーンズを横目で見て、ほら、僕は耳が良いからさ。と続けた。
「変な音がしないから大丈夫だろうって思ったんだよ。子供を一人にさせておいて、助けようとした人を連れ去りだって騒いでお金取ろうとする酷い奴もいるだろ。でもあの子のそばに人気はなかったし、泣いてたけど呼吸音にも変なところはなかったから」
途切れることのないエリジウムの言葉を、ソーンズは右から左へと流していた。今更言われずとも、エリジウムの優秀さはロドス内の誰もが認めるところだったからだ。こうしてお喋りが過ぎるところはあるが、それすら武器にしてみせる。抜けている部分を補うだけの能力があり、他者への協力を惜しまず他者からの協力を素直に受け入れる。
「だから」
と、エリジウムが唐突に少し大きな声を出した。彼の演説をすっかり聞き飛ばしていたソーンズは、はっとしてエリジウムを見た。薄い色をした瞳が、ソーンズを映し、ひとつウインクをしてみせる。
「君も、僕にもう少し頼ってくれても良いんだよ」
急な話だった。何を。と返そうとしたソーンズは、しかし咄嗟に言葉が出なかった。
泣いている子供を見て足を止めたくせに、先日の任務を思い出して動くことを躊躇ったのはソーンズ自身だ。
「……気が向いたらな」
結局、返したのはそんな言葉だった。それでも良かったのか、エリジウムが笑う。
鉱石病、イベリア、リーベリとエーギル。
エリジウムが言葉にしていない、外見からではわからないことを抱えているのもまた、ソーンズは知っていた。けれどお前も背負うものはあるだろうに。とは言わなかった。代わりに、お前も。とソーンズは言った。
「お前も、頼りたかったら頼れば良い」
途端に、パッとエリジウムが破顔した。思わず目を細めたソーンズに、じゃあエリートオペレーター様に昼食を奢ってもらおうかな。とエリジウムが軽口を叩く、その言葉には先にドクターに頼まれたお使いを済ませた方の奢りだと告げながら、ソーンズは、いつかそう遠くない日、この男に頼る日がくることを確信していた。