帰巣本能

 ドクター達と共にシエスタから帰艦したソーンズが、必要な検査や報告の後に真っ先に向かったのはエリジウムの部屋だった。
 時間は既に夜の八時を過ぎている。夜勤や一部の施設勤務、緊急事態に備え制御中枢に控えているオペレーター以外の者は、宿舎に戻っている時間である。
 ノックをすれば返答がある。相手が出迎えるのを待たずに鍵を開けて部屋に踏み込めば「ブラザー?」と声が上がった。
「良くわかったな」
「僕の部屋に勝手に上がり込んでくるのは君くらいだよ」
 奥の部屋に入れば部屋着のエリジウムがのんびりと立ち上がったところだった。机の上には一冊の本と眼鏡、お茶の入ったカップが置かれている。オーディオラックに設置されたスピーカーから流れているのは、シエスタで嫌というほど聞いた曲だ。
 任務帰りの姿のまま、着替えもせずに現れたソーンズに、冷蔵庫から冷えたお茶とコップを出しながらエリジウムが言った。
「案の定、フェスで面倒事に巻き込まれたみたいだけど、ドクターや他のみんなに異変はない?」
「全員無事だ」
「なら良かった。僕の情報のおかげかな」
「それはない」
 ソーンズはコップに注がれたお茶を受け取りながら、はっきりと言った。
「お前からの忠告を告げるまでもなく、ドクターは既に動き出していた。後から無駄な情報を渡しても時間の浪費だ」
「ええ。つまりドクターには何も言ってくれなかったってこと?」
 それどころかドクターがその面倒事の解決に走り回っている間、ソーンズは別の場所にいたのだが、それには触れず、コップの中身を飲み干した。そしてオーディオラックの上で騒がしい旋律を奏で続けるプレーヤーを止める。
 途端にエリジウムが声を上げた。
「ちょっとちょっと! 止めないでよ! オフィスで禁止されたから部屋で聞くしかないんだから!」
「この曲が入った小型のプレーヤーを持ち歩いているだろう」
 そう言って、ソーンズは先程までエリジウムが座っていた椅子に座った。ひとつ息を吐けば、エリジウムが眉根を寄せる。
「聞き忘れたけど、帰艦時の検査は受けてきたの?」
「ああ。問題なしだ」
「疲れてるなら新品の耳栓があるからあげようか?」
「必要ない」
「部屋に戻った方が休めるんじゃない?」
 ソーンズは答えずに、己の鞄の中からひとつの包みを取り出した。
「ほら」
 軽いそれをポンと投げれば、エリジウムは落としもせずに受け取った。
「土産だ」
 首を傾げるエリジウムに、開けてみろ。と告げる。ソーンズの言う通りに包みを開けたエリジウムの目が、中から出てきたポスターを見て、分かりやすく輝いた。
「A……!」
 パッと開いた口が、ソーンズに配慮してだろう。ゆっくりと閉じられ、その色素の薄い瞳がソーンズを映した。
「君、本当に貰ってきてくれたの?」
「少し縁があってな……。おかげで、踊り疲れた」
 ソーンズは再度大きく息を吐く。エリジウムにポスターを渡した途端、ドッと疲れが押し寄せてきた。
 ——足が大地を踏み締めている。浅い夢からはもう覚めた。あの影は遠く、その目は既にソーンズを映していない。
『ああ、よかった。ちゃんと君だね』
 シエスタの砂浜で、身体を海水でぐっしょりと濡らしたソーンズを見つめていたのはAyaだった。彼女はどこも濡れていない乾いた姿のまま、楽しそうに笑っていた。
『素敵なダンスだったよ。見ていた私が一緒に踊りたくなるくらい』
 助けられたのだと、その時、悟った。彼女はあれと踊ったのだろう。
 潮騒の音がする。日が沈みかけている。もはや影のみを残す夕焼けに照らされた桃色の髪のエーギル——否、彼女はエーギルではない——は小さく歌を口ずさんでいた。聞き慣れた曲だ。
 ああ、そうだ。とソーンズは思った。
 この曲がなければ、果たすべき仕事を思い出すこともなかっただろう。
 やがて日は沈み、背後のホテル街の光が砂浜を照らす。ポツポツと遠く近く灯るのは砂浜に設置された街灯だ。
 Ayaがひとつ伸びをした。
『そろそろ行かなくちゃ。夜のライブが始まっちゃう。ポスター、ここに置いておくね』
 ソーンズが落としたものを拾ったのか、あるいは別のものを用意したのか、砂の上にポスターを置いたAyaは立ち上がり、服についた砂を軽く払う。
『君が帰りたい場所に、ちゃんと帰れますように!』
 そう手を振った彼女は、帰りたい場所に帰ることが出来るのだろうか。考えながら、ソーンズはAyaの座っていた場所に置かれたポスターを見た。ポスターはAyaと同じく濡れていなかった。
 帰りたい場所。帰る場所。
 ソーンズは本当の故郷など見たことがなく、そして自らの意思で離れたイベリアも、もう帰る場所ではなかった。
 であれば。とソーンズは思う。遠く、曲が聞こえる。おそらくはどこかのホテルかレストランが流しているCD音源だろう。そしてその旋律に思い浮かんだ場所は。
 思い浮かんだ人間は。
「ソーンズ?」
 呼びかけられて、ソーンズは目を開けた。
 いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
 少しばかり心配げに己を覗き込むエリジウムと目が合った。
「君、本当に疲れてるならベット貸してあげるから寝なよ。できれば部屋に戻るかシャワー浴びて着替えるかして欲しいけど、このポスターに免じて今日ばかりは許してあげるよ」
「そのくらいで足りると思ってるのか……?」
「君、案外元気? もちろん思ってないよ。次の休暇にご飯も奢ってあげるからさ」
「……無線」
「うん?」
「お前の無線機を、ひとつくれればそれで良い」
 ソーンズの言葉に、エリジウムはパチリと目を瞬かせた。
「そのくらいいつでも用意できるけど、そんなので良いの? エンジニア部に言えば新品を用意して貰えるよ。それに、僕の無線機は」
「良い」
 エリジウムの声を遮って、ソーンズは小さく首を振った。エリジウムの持つ無線機が、彼のアーツを受信できるように改造されたものなのは承知していた。その上で、彼は噛んで含めるように、エリジウムに告げた。
「それが良い」
 
 いったいどちらへ行けば良いのだろう。数秒にも数百数千年にも思える狂った時間の中、どこへ繋がっているのかどこから切り離されているのか分からない歪んだ場所で、彼はひとつ息を吐いた。
 彼の手には剣が握られている。錆びてはいないが度重なる戦闘で刃がところどころかけており、べっとりと血に汚れ、もはや彼の手に張り付くようだ。その血がいったい何色をしているのか、海の色がわからぬように、彼に知る術はなかった。
 空いた片方の手で、彼は己の懐を漁った。そこには小さな戦術無線が存在する。彼の向かう先を示す小さな機械だ。通信を保ち続けろ。とは、ロドスで何度も聞いた言葉だ。通信を保ち続けろ。もうすぐ応援が到着する。しかし今は、その応援が見込めない。
 であれば、彼は向かわなければならなかった。この通信機がつながる場所へ。どんな姿になってでも。この状況を打破する為に。そして、もしも己が大博打に負けた際に、己の弱点を知るものに全てを託す為に。
 ぼとり。と、何かが落ちた音がした。同時に金属音が響く。手に張り付くようだった剣が腕と共に落ちたのだと悟ったのは数歩先へ進んだ後だった。海の匂いが濃くなった。
 ぼとり。ぼとりと己の体が崩れていく中、僅かな声が聞こえてきた。通信機からの声だった。
 己を呼ぶ声がする。
 急に、彼の中に、帰らなければ。という気持ちが湧き上がってきた。
 己の思考と判断に従って検証を続けてきたというのに。彼は本当の故郷など見たことがなく、そして自らの意思で離れたイベリアも、もう帰る場所ではなかったというのに。
 いったい、どこへ帰るというのだろう。
『ブラザー!』
 通信は未だ続いている。時間も場所も歪んでいれば、この海が起こす幻覚かもしれぬとは理解している。だのに帰らねば。という気持ちが強くなる。繋がった先がクルビアか炎国か、あるいはヴィクトリアなのかあの大群なのかもわからぬのに、ただ帰りたいと。
 願ったまま、崩れ変化する身体で小さな無線機を握りしめた。
 
 
 目が覚めた。
 そばに見慣れた顔がある。少しばかりの距離を開けて隣で眠っていたのはエリジウムだ。ソーンズは夢のおかげでわずかに上がった息を整え周囲を見渡した。明るい色のカーテンがかけられたここは己の部屋ではなく、エリジウムの部屋だとすぐにわかった。
 エリジウムに目を向ける。規則正しい寝息を立てている男は、部屋を訪ねてきたまま眠ってしまったソーンズを、仕方なしにベッドで寝かせ、他に寝る場所もないので隣に潜り込んだのだろう。
 わずかに身じろぎすれば、何か小さく硬いものがソーンズの手に当たった。見れば、それは掌に収まる小型の無線機だった。
 急に、ソーンズの胸がざわついた。エリジウム。と声を出さずに隣のリーベリを呼んだ。
 ——俺は、夢の中でさえ。
 続く言葉はやはり音にすることなく、ソーンズは無線機を握りしめて硬く目を閉じた。
 これは次に目を覚ました時には忘れてしまっている、ただの夢の話であった。









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