呼び声

 潮が引くと外に出る。浜辺となった街は塩に塗れて今日も白い。時折外から運ばれてきた様々なものが、うち捨てられた家の屋根や壁の隅に引っかかって街に留まる。生き延びた人々はそれを集めに白い街を歩き回る。
 男はいつもの道を歩いていた。いつの間にか生き残った者達の間で縄張りが決まっていたから、道を外れることは滅多にない。他の者もそうだ。しかし今日は隣の縄張りの者が男を探しにやってきた。
「私の縄張りにある家から物音がする」
 隣の縄張りの者は言った。
「恐魚か?」
 男は尋ねた。
「わからない」
 隣の縄張りの者は首を横に振った。恐魚が流れ着いた場合は警告も兼ねて隣の縄張りにまで足を伸ばす。縄張りが狭いことに不満はあっても、人手不足を絵に描いたような状況では、動ける者、アーツを使える者が消えるのは惜しい。
「私が援護すれば戦えるか?」
 男は己の矢の本数を数えた。放っておけば生き残った者達の住む場所にまで辿り着くかもしれない。駆除は必須だ。それも干潮の間でなければならない。干潮の間は宇宙からの影響が強く、恐魚の動きが鈍くなるからだ。さらに物音を聞いた場所は応急治療施設の効果範囲内だった。
「わかった。俺がやる」
 男は弓に矢をつがえた。その途端、ジジ。と男の胸ポケットから音がした。いつかの干潮の際に拾った無線が音を立てたのだ。男は口の端を緩めた。どうしてかこれを拾ってから弓矢の調子が良い。電波を拾っても何を発しているのかはわからないが、お守りがわりに外へ出る際は持ち歩いている。
 聞き耳をたてながら屋根から屋根へと飛び移り、問題の場所へ向かった。小さな音にも気を配る。海により侵食された世界の中で、男が生き延びたのは運の良さと耳の良さの両方を備えていたからだ。
 果たして何かはそこにいた。最初に見えたのは鋭い棘だ。その先端から黄色い液体が滴っていた。毒だ。溢れ落ちたそばから地面を焼いている。
 驚くことに、その恐魚は人の形をしていた。男達は目を剥いた。不味い。とほとんど反射のように思った。恐れた。
 頭の中に浮かんだのは死だ。
 恐魚が男達を見た。
「  」
 ゴポリ。とその喉から海水が溢れた。ゴホゴホと咳き込む恐魚を屋根の上から見下ろしながら、男はハッとして弓を引き絞った。時間が経てば潮が満ちる。大群は個の集まりであり一である。この個体を逃がせば次は群れとなり襲いくるのは分かっていた。
「援軍を呼べ!」
 男は叫んだ。途端に屋根を蹴る音がした。その音が遠ざかるほどに、全身の震えが強くなる。
 矢が放たれた。あっさりと、それは恐魚に突き刺さった。避けようともしなかった。相変わらず。恐魚は男を見ていた。そして再度口を開いた。
「探しているものがある」
 口の端から海水をこぼしながらも、恐魚は言った。男はギョッとしながらも二本目の矢を弓につがえた。矢を射るが恐魚は話すことをやめなかった。
「手のひらに乗るサイズの無線機だ。黒色をしている。このあたりにあるはずなんだが、覚えはないか?」
「無線機だと?」
 男は思わず答えた。その無線機に覚えがあったからだ。
 男の胸ポケットからジジ。と音がした。
「ああ」
 恐魚が小さく呟いた。男が目を見開いたのはその小さな音を恐魚に聞かれていたからではない。
「ここにあったのか」
 恐魚が、すぐ目の前にいたからだ。
「ッ……!」
 輝く金の瞳に矢を放つ。鈍い音がする。鏃が肉に食い込む音だ。
 海の匂いが強くなる。
 だがそれを確認するより早く、恐魚の手が胸元に迫った。
 布の破ける音と、やはり無機質な無線の音がした。
 男が見たのは空の青だ。
 体が屋根から落ちていく。
 地面に打ち付けられながら、男はそれでも生きていた。恐魚は男が生きていることを確認するように屋根の上から男を見ていたが、やがて姿を消してしまった。

 
 海へ行く。
 それは体に刻まれた本能のような行動だった。
 大群が己を呼んでいる。己はその一部であり全であるのだと言っている。
 だが彼には他に聞こえるものがある。
 ——。
 音とは。
 振動である。
 空気を震わせ液体を震わせ固体をも動かすものである。故に海の中でもそれは彼の元に届いていた。ある種のエーギルが特定の波長でのみ意思のやり取りをするように、彼は相手との固有の意思伝達手段を持っていた。それは遊びから生まれた。その遊びが彼の意識を大群からずっと切り離していた。アーツで編まれた振動であれば、アーツを紡いだものがそばに居らずとも、媒介さえあれば消えることもなかったからだ。
 だからこそ大群はそれを邪魔と判断した。遠ざけた。けれども彼はその波長に執着し続けた。たとえその波長が遠ざかるほどに己の形が無くなろうと、誰かに寄生しなければその波長を捉えることができなくなってしまおうと。
 そしてついに彼は辿り着いた。
 呼ぶ声は、彼にあっさりと己の形を思い出させた。声を思い出させた。笑うことを思い出させた。
 己の名前を呼ぶ相手のことも。
 ジジ。と握りしめた無線から音がした。
 彼はただその声を聞いた。
 ——ブラザー。
「エリジウム」
 その声が真実だった。その声だけが、真実だった。








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