パイプカットを考えている。とイザナが言った。向かいの席には同じくらいくたびれた蘭がいた。そして乱れ髪もそのままに、いいんじゃないの。と笑った。徹夜明け、朝日もすっかり上った午前七時のことだった。
「ご注文は」
ガード下の大衆食堂であるために、店内には常に電車の音が響いている。店員に北京訛りの強い日本語で問いかけられて、イザナは揚げパンと豆乳を頼み、蘭は包子と白粥、そして漬物を頼むと、少し考える素振りを見せた後、揚げピーナッツを追加した。その間にも、大学生らしき青年と、スポーツ新聞を小脇に抱えた老人が入ってくる。御徒町駅から徒歩五分、北京の大衆食堂にワープしたようなこの店は、蘭が選んだ店だった。黄ばんだメニューの貼られた店内を見渡して、趣味が変わったのか? とイザナが聞けば、大将に変なもの食べさせられないでしょ。と蘭が嘯いた。
実際、蘭はイザナが不味いと顔を顰めるような店に連れてきたことはない。それに、ここが一番近かったからさあ。と告げる彼には疲れが見えた。
蘭と弟の竜胆が経営する店の中には十代から二十代をターゲットとしたものがあり、二人の作り出すカリスマ性に惹かれるのか、時折行き場を失った子どもが迷い込むことがある。追い出し再び街の中に突き放つのは簡単だが、灰谷兄弟はそうしない。
イザナ達TENJIKUとの縁がそうさせるのか、あるいは何か別の理由か、彼らは迷い込んだ子供達を正しく福祉に繋げようとする。今回もそのためにイザナを呼び、一晩中ああでもないこうでもないと話し合い、ようやく相手の信頼を得る道筋が見えたところだった。とはいえここからが長い。顔見知りの福祉士を交えて情報共有をせねばならないし、介入も慎重にしなければならない。蘭に至っては引き際の見極めも重要だ。子供にとって大人とは、十年あるいは数十年早く生まれただけの敵にすぎず、また彼らは警戒心が高く恐れ知らずで臆病で、そして強く弱い。その厄介さを、悪童だったイザナも蘭もよく知っている。
「それで」
運ばれてきた白粥に漬物を落としながら蘭が言った。
「なんで急にパイプカット?」
大衆食堂でするには問題のない話題だが、朝七時にする話題ではなかったなとイザナは思った。とはいえこんなところで子どもたちの話や仕事の話など出来はしない。イザナは豆乳に砂糖を入れて口を開いた。
「面倒だろ」
「避妊が?」
「それ以外あるのか?」
「ないけど、誰の?」
「オレら」
温かな豆乳に、砂糖はすぐに溶けた。一口サイズにちぎった揚げパンを豆乳に浸して口の中に放り込めば、徹夜明けの胃にも受け付けやすい味がする。
蘭が白粥を食べる手を止めて、パチリと目を瞬かせた。
「え、大将と鶴蝶の?」
「他に誰がいると思ってんだ」
「クソ客とか」
「なんでそんな奴のためにオレらが動いてやらなきゃなんねーんだ」
「それはそうだけど、え、ええ〜」
徹夜明けの冗談じゃなく? と告げた蘭の包子が運ばれてきたので、イザナはそれを千切って一口だけ食べると、蘭に押し付けた。
「あれ? 大将全部食べないの?」
「今度鶴蝶と来た時に食べるから良い」
「ここ発酵白菜鍋美味しいから鶴蝶と来るんならおすすめ」
量多いけど鶴蝶なら食べ切れるでしょ。と言って、蘭は包子に齧り付いた。
「そんで」
やはり蘭に運ばれてきたピーナッツをイザナが齧っていると、口の中を空にした蘭が言った。
「マジで言ってる?」
「何を?」
「パイプカット」
「冗談で言うと思うのか?」
「だよねえ」
すでに適温になっているだろう白粥をかき混ぜながら、蘭がひとつ息を吐いた。イザナの言葉が本気であると、やっと気づいたようだった。
「それ、鶴蝶に言った?」
「言う必要があるのか?」
思いもがけぬ言葉に、イザナは食事の手を止めて蘭を見た。パイプカットをするのはイザナであって鶴蝶ではない。イザナの身体のことを決めるのはイザナ自身だ。生計を共にしているのでかかる費用のことは事前に告げるし相談もするが、だからといってイザナの決定にまで口を出される筋はない。
そう告げれば、蘭はそっかー。と白粥をかき混ぜる手を止めると、
「でも、一言は言っておいた方が良いよ」
と告げて、良いクリニック探しておこうか? と続けた。
鶴蝶はアルファであるイザナの番だ。天竺が東京卍會に下り、東京卍會が解散する一ヶ月前に番になった。事故のようなものだった。見知らぬオメガの発情期に当てられたイザナが鶴蝶の頸を噛んだのだ。中学生であれば二次性徴が始まっていない者も多い。鶴蝶の第二性はその時まだ決まっていなかったが、この時イザナに噛まれた影響か、三ヶ月後にはオメガであると診断が下った。同時に頸の傷は消えない痕となり、鶴蝶がイザナの番となったことを告げていた。医療の発達により番の解消は薬で簡単に行えるようになりはしたが、イザナと鶴蝶は十一年間、ずっと番でいる。そしてお互いにそれを解消するつもりもない。
午後八時。くあ。とあくびを溢した鶴蝶に、イザナはそろそろ寝たらどうだ。と声をかけた。眠るには早い時間だが、鶴蝶の瞼はすでに落ちてしまいそうで、その頬に触れれば風呂上がりという事を抜きにしても熱い。
これは明日には発情期が来るな。とイザナは声に出さずに思った。無意識か、鶴蝶がイザナの手に擦り寄ってきたので、頬を軽く摘んでやる。
「さっさと寝ろ」
再度告げれば、鶴蝶はもう一度あくびをこぼすと立ち上がった。のろのろと寝室へ向かう背中を見て、イザナはスマートフォンを取り出した。薬でコントロールしているため予定通りではあるが、TENJIKUへ連絡を入れておくためだ。イザナと鶴蝶がおらずとも、子供たちやNPOに何かあった際にすぐに対応できるシステムを構築してはいる。しかしあれやこれやと懸念点が浮かぶのは仕方がない。武藤と望月、そして斑目にそれぞれ別の文章を送り、スマートフォンをスウェットのポケットに入れた。
寝室からは先ほどまで鶴蝶が動き回る音がしていたが、今はなんの音もしない。イザナは己も立ち上がる。
イザナと鶴蝶の暮らすマンションには眠る場所が二ヶ所ある。一ヶ所は二人が普段から使用している寝室で、もう一ヶ所は折り畳みベッドが置いてある倉庫だ。倉庫の方は子供達から風邪やら溶連菌やらをうつされた際の隔離場所になる他、他国からの帰国後、生活リズムを取り戻す為に使用したり、繁忙期に片方が昼夜逆転した時に使用したりする。その際は大抵鶴蝶が倉庫を使うのだが、発情期前だけは別だった。
寝室の扉を開ければ、こんもりとイザナの服がベッドの上に積まれている。
「鶴蝶」
覗き込めば、現と夢の狭間にいる鶴蝶の視線がイザナへ向いた。
「枕よこせ」
イザナが言えば、鶴蝶は渋々と抱き込んでいたイザナの枕を手渡してくる。個人差はあるものの、発情期中のオメガは感覚が鋭くなることが多い。フェロモンに敏感になるためと言われてはいるが、鶴蝶は元々鼻が効く。そのせいで必要のない匂いまで拾ってしまうらしく、発情期に慣れないうちはさまざまな匂いで具合を悪くしてしまうことすらあった。
「……巣作りする気持ちがわかる」
とは、三回目の発情期で零された言葉だった。番であるからか、イザナのフェロモンは他より優先的に感じることが出来るらしい。であればイザナの服でもなんでも、匂いの付いているものがあればさほど具合は悪くならない。それを聞いた当初は、鼻栓代わりかよ。と一度はその巣から己の服を取り上げたイザナも、一週間前に遊びに来た元捌番隊の連中の匂いとその時食べた焼肉の混じった匂いがする。と半泣きで言われては、流石に哀れに思う気持ちが勝った。以来、発情期の最中は己の服だけは好きに使わせてやっている。大抵は皺がついても問題のない服が選ばれてベッドの上に積まれるが、今日は床に一枚のシャツが捨て置いてあった。
珍しいと思いながらイザナがそのシャツを拾えば、ぼんやりとイザナを見上げていた鶴蝶が悪い。と告げた。
「それ、蘭の匂いがするから部屋の外に出しておいてくれないか」
言われて思い出した。先日、子供の保護に関して蘭と徹夜をした際に着ていたシャツだ。灰谷兄弟もアルファであるので、他の人間の匂いより気になってしまうらしい。過去に一度、本人達がどんな匂いがするのかと聞いていたが、顔を顰めた鶴蝶から、自己主張が強い。と返ってきて、その場にいた者達でゲラゲラと笑った記憶がある。
そして同時に思い出したことがあり、イザナは鶴蝶へと目を向けた。
「どうした?」
「オマエ」
ぼんやりとした鶴蝶の瞳に、イザナが写っている。
「子供欲しいか?」
イザナの問いに、鶴蝶が僅かに目を見開いた。
「アイツらがいるのに?」
「だよなあ」
イザナがひとつ息を吐いた。鶴蝶が告げたアイツらが灰谷兄弟含めた元天竺の幹部達か、あるいはNPO法人で面倒を見ている子供達か、その両方かは分からないが、イザナの思った通りの答えだった。イザナも鶴蝶も血の繋がった家族はおらず、そしてそのことに未練はない。今の居場所や隣にいる人間は自分で望んで得たものだ。何かの代わりではないし、足りないものも何もない。竜胆のいる蘭には分からないだろうし、だからこそ鶴蝶と話せと言ったのだろうけれど。
いきなりどうしたんだ? と鶴蝶が首を傾げるので、蘭と話したことを告げてやる。
「パイプカットするのか」
「どう思う?」
「イザナが決めたことだろ」
それに避妊ならオレもしてる。と鶴蝶は告げた。彼が毎日飲んでいる発情期をコントロールする為の薬には、避妊の効果もある。とはいえそれだけ強い薬でもあるので、定期的な検診は欠かせない。海外にはパッチやインプラントを含め他の薬もあるが、日本で認可されていなかった。
長期の薬の服用にはリスクが伴うことが多い。イザナは以前から薬をより軽いものに変えた方が良いのではないかと提案していたが、発情期の際に興奮してうまく避妊具を付けられず、外れたり破れたりした過去を考えれば、鶴蝶が首を縦に振らないのも納得できた。ましてや鶴蝶は子供の頃とて筋が通らないことは王にはっきりと告げる下僕だったのだ。大人になった今はなおさらその頑固さが増している。鶴蝶の身体のことは鶴蝶に決定権がある。とはいえイザナが諦めた訳ではない。
「イザナ」
鶴蝶に呼ばれてどうしたと聞けば。その手が伸びてイザナの頬に触れた。
「ありがとな」
イザナは思わず顔を顰めた。鶴蝶が笑みを深くする。
イザナにとって。
言葉は軽い。約束でないなら尚更だ。施設の規則の中でありったけの思いを込めて書いた葉書に返事は来ず、真一郎から聞いたとイザナを訪ねてきた万次郎も、結局何を聞いてもその腹に抱えたものを吐き出しはしなかった。
イザナは行動こそを評価する。だからこそ己の隣を離れなかった鶴蝶を選んだ。
そしてだからこそ。
イザナはあの冬の日、鶴蝶を庇って凶弾の前に飛び出した。
「っ……」
「イザナ?」
目の奥に光が散った。貧血を起こしたような感覚に、イザナは己の額を抑えた。心配したのか起き上がろうとした鶴蝶の手を払い、問題ねえ。と吐き捨てる。実際、幼少期からままあることだ。原因は不明だが、今のところNPOで毎年行う健診でも異常が見つかったことはない。
「いつものだ。どうせ明日早いんだからさっさと寝ろ」
「イザナが話を始めたんだろ」
鶴蝶は訝しげに顔を顰めたが、彼もイザナが時折貧血のような症状を起こすことは知っている。いつものなら良いけど。と言って、再び己の巣に潜り込んだ。そしてイザナを見ると、パイプカットはいつするんだ? と聞いた。
「今、蘭にクリニック調べさせてるから連絡が来てからだな。金の話はもっと頭が働くときにするワ」
「うまいこといくならオレも薬変えようと思う」
「おー。そうしろ」
パイプカットを決めたイザナの意図が正しく伝わっているのが分かる。どうしてかくすぐったいような気持ちになって、誤魔化すように、そしたら一回くらいは生でヤってみるか? と聞けば、それも良いな。と返ってくる。
「良いのかよ」
パイプカットをしたとしても性病の危険はある。子供の保護に携わっていれば、否が応でもそうした被害に遭った者と向き合う必要があり、目を逸らすことができない。であれば己のことも慎重になりがちだが、しかし鶴蝶は首を傾げた。
「どうせ他に相手いねぇから大丈夫だろ。それに、イザナはどんなもんか気にならないのか?」
「そう変わんねえだろ」
十一年も番関係にあるのだ。発情期以外でも身体を繋げるようになって久しい。若さと勢いに任せてそれなりに人には言えないプレイをしてきた自覚もある。今更避妊具一枚無くしたところで何かが大きく変わるとは、良くも悪くも思わなかった。
「まあ、するけどな」
「するんじゃん」
鶴蝶が破顔した。子供の時と同じ笑みだ。けれどすぐにあくびに変わる。
「寝るか」
イザナが言った。鶴蝶は頷いた。
「引き留めて悪かったな。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
イザナはそう告げると、己の枕とシャツを抱えて寝室を出た。部屋の扉を閉めた時、押し出された空気からイザナだけが感じられる甘い香りがした。
明日にもなれば、発情期を理由に一日中ダラダラとセックスをするのだろう。イザナと鶴蝶の性行為が、コミュニケーションの一環となったのはもう随分と前のことだ。そもそもアルファとオメガであれば当然と考えられている繁殖行為は一度も二人の間で成立したことがなく、そしてこれからも成立しない。
蘭の匂いがするというシャツを洗濯機に放り込んで、イザナはスマートフォンを取り出すと、蘭に、話した。さっさとクリニック探せ。とメッセージを入れ、少し考えた後、この前保護した子供のことも告げた。悪いことにはならねえ。と。
そしてしばらくの後、子供はTENJIKUへとやってきて、鶴蝶に迎えられるのだ。