ガープが眠っていないことに気付いたのは、収穫祭三日目の夜のことだった。
その夜の城はざわついていた。なにせ魔獣からクロケル・ケロリの文が届き、明日から始まる彼女たちとの攻防に備えていたのだ。門番を買って出た悪魔数名を除く全員で夜食と会議を共にしていた時、不意にガープのレスポンスが悪くなった。他の悪魔であれば気にならないような一瞬の出来事であったが、アガレスは思わず隣にいた白銀を見上げた。なにせガープは明日の城外の守りの要だ。多くの悪魔達に頼られる状況は、普段の彼であれば最も高揚する場面だろう。しかしアガレスの隣に座ったガープは大人しく、よく見ればその毛並みに艶がない。
アガレスは眉根を寄せた。
そして少しばかりこの三日間のことに思いを馳せる。人海戦術で得た素材により増改築した城は広い。それでもアガレスの魔術で作られていれば、誰がどの部屋にいたかはある程度把握している。思い返せばガープは主に厨房か城外、そうでなければアガレスの側にいた。
単独行動していたのは初日のみ。
その事実にアガレスはゾッとした。
「じゃあ、門番のシフトはこれで決定ということで」
おにぎりを食べながらシフト表を作っていた悪魔が立ち上がる。壁に大きな紙を貼りつける為、他の悪魔も立ち上がった。
夜食の残りも少なくなっており、自然と解散の雰囲気がその場に流れ出す。アガレスの隣にいたガープも片付けをしようと目の前の皿に手を伸ばそうとしたが、それより早く、アガレスがガープの服の袖を引いた。
「アガレス殿?」
不思議そうに顔を覗き込む相手には応えずに、アガレスは他の悪魔に声をかけた。
「こいつちょっと借りるけど片付け任せてもいいか」
皿を手に立ち上がった一つ目が首肯する。
「大丈夫だよ。何かあったか?」
「いや、仮眠」
こいつ全然寝てねえから。と言えば、ガープが目に見えて狼狽えた。しかし他の悪魔はなるほど。と言ったように頷くばかりだ。
「ガープくん出ずっぱりだったもんね」
「頭級の討伐にも怪我人の救助にも参加してたし」
「皿洗いなんかは俺らもできるから、殿と一緒に仮眠室行ってきなよ」
「魔綿の種は提出したけど、魔綿自体は提出せずに敷き詰めてあるからふっかふかだよ!」
横になって寝るタイプの悪魔なら、あれを体験してないなんてもったいないよ! と背中を押され、ガープとアガレス、そしてシショーは文字通り部屋を追い出された。どうやら知らぬ間に部屋を改造されていたらしい。
「ここは俺の寝床だってのに」
ブツクサ言いつつ長い廊下をシショーに乗って進み、他の悪魔たちの喧騒が遠くなった頃、手を引かれてトボトボと歩いていたガープが小さくアガレスの名を呼んだ。
「アガレス殿」
その声には応えず、アガレスは廊下の端に寄るとジェスチャーのみでガープにしゃがめと指示をする。
ガープは首を傾げたものの、素直にアガレスに従いしゃがみ込んだ。アガレスは片手でガープの服を掴んだまま、もう片方の手で床に手を付いた。
「何を」
とガープが告げる間も無くアガレスの家系魔術が発動する。一瞬の後に現れたのはシショーが通れるサイズの隠し扉だ。開いて覗き込めばそこには下へと続く階段が現れる。魔術で光を灯したと同時に近い位置にある松明が一つ消えた。アガレスが消したのだ。
「入ってみろ」
「え、良いんでござるか」
「お前の為に作ったんだから良いんだよ」
はよ入れ。と言えば、ガープは隠し扉の奥を見て、もう一度アガレスを見た後、階段へと踏み込んだ。仄かな光に照らされた白銀を眺めて息を吐いた後、アガレスもシショーとその背に続く。もちろん隠し扉を閉めることは忘れない。
五分ほど進んだ後、ガープが屈めていた背を伸ばした。入り口で立ち止まったガープの背を押して、部屋の中にうながしてやる。
「ここは……」
「仮眠室」
あくびをひとつこぼして、アガレスは言った。
「即席で作ったから狭いし土壁だし、光は魔術で付けないといけないけどな」
空気窓はそこ。と暗い部屋の天井を指差せば、ガープは見えるはずもないのにアガレスの指の先を追った。
うっすらとした光に照らされたその顔を見ながら、アガレスは口を開く。
「ここなら俺以外誰も知らないから寝れるだろ」
小さく、ガープが息を飲んだことがわかった。その口が何かを言う前に、アガレスは重ねて告げてやる。
「あいつらうるさいし、俺が寝ててもなんかあったら気にせず起こしにくるし、ちょうど良かったからさ」
そして部屋の中心までいくと、その場にシショーをおろしてもう一度あくびをこぼす。
「ほら、お前も」
シショーにもたれかかっても良いから。と言えば、ガープは少しためらった後、ノロノロとシショーの隣に腰を下ろした。三角座りをし、膝に顔を埋めて、少しだけ身体を傾けシショーに身体を預けてみせる。
ふっと、ガープの灯した光が消えた。アガレスが己も火を消すと、部屋の中は完全な暗闇に包まれる。収穫祭であれば、本来闇は恐ろしいものだ。だがここはアガレスの寝床の上である。暗闇は彼らを暴き傷付けるものではない。
やってきた睡魔に身を任せ、うつらうつらとしていたアガレスの耳に、小さな声が届いた。
「アガレス殿」
ガープだ。アガレスは答えなかった。早く寝ろと言ってやりたかったが、もう眠さで口も動かせなかったのだ。
「ありがとうでござる」
そんなことは言わなくて良いと思った。これはアガレスのエゴだった。他者の隠し事をすぐさま暴こうとする好奇心旺盛な悪魔達に、ガープが素顔を隠していることを知られたくなかった。けれどやはりアガレスは何も言えなかった。深い眠りはすぐそこだ。アガレスはその心地よさを知っていて、次に目覚めた時、隣にはいつものようにアガレスの起床を待つガープがいることも知っていた。
あるいは初めてアガレスは、ガープが起きるのを待つのかもしれない。
——おはようでござる。アガレス殿。
夢現の中、己の名を呼ぶガープを思い出して、それも良いかもしれない。とアガレスは思った。いつの間にかアガレスが目覚める時、ガープが隣にいることが当たり前になっていた。彼が迎えに来ない休日に違和感を覚えるようになったのも同時期だ。そしてアガレスが起きる時、ガープはいつでもアガレスの名を呼んだ。その声を聞くと、アガレスの胸にはサッと暖かな風が吹く。アガレスは同じものがガープに訪れれば良いと思っていた。
なにせその風と一緒に飛来する感情を恋と呼ぶのだろうと、アガレスはずっと前に気付いていた。