I know




 サラへの報告が遅くなったのは、メッセージアプリやビデオ通話を使うのは味気ない。とバッキーが反対したからだ。そうこうしているうちにマスメディアにすっぱ抜かれるんじゃないかとサムは思ったが、口のかたい友人知人達のおかげで、第一報は無事にサムの口から告げられた。
 ラフト収監どころか、アベンジャーズの再編もニュースで知ったのに。と笑ったサラは、久しぶりに生家へ帰ってきた弟が、自分に何を告げるのかを分かっていたようだ。その夜の食卓にはサムの子供の頃からの好物と、色鮮やかなケーキが並べられた。それどころか朝食用にオレンジジュースも用意してあると聞いて、サムはこっそり舌を巻いた。
「ところで、バッキーはどうしたの?」
 すっかり大きくなったAJとキャスを洗面所に押し込み、台所でサラはサムに耳打ちをした。その視線の先には眉間に深い皺を刻んだ『バッキー』がいる。おそらくサラは初めて見る姿だろう。目付きの悪さに警戒心の高さが現れている。
 サムはその姿を少し気の毒に思いながら、人数分のグラスを取り出して、喉がな。と告げた。嘘だった。嘘は吐きたくない。しかし安易に伝えて良いことでもない。海千山千の政治家達とも弁論で渡り合ってきたサム・キャップの口からは、それらしい嘘が矢継ぎ早に飛び出した。
「急な任務で喉と腕をやられたんだ。しばらく喋らせるなと医者から厳重に言い渡された。バッキーには自分から告げると駄々をこねられたが、ホラー映画の幽霊みたいなしゃがれ声になっててな。そんな声でAJやキャスを怖がらせるより、早く治して後からビデオ通話でもしてやってくれ。と説得して、ようやく頷かせた。……とはいえ頭で分かっていても気持ちまでは追いつかないみたいだ。二人の名前を出したから、治ったらしばらく通話でうるさくなるかもしれないが、目をつぶってくれると助かる」
 AJやキャスをメタルアームにぶら下げて遊んでやった時から、バッキーが二人を変わらずに可愛がっているのはサラも知っている。彼女はホッとしたように息を吐いた後、言ってくれれば三軒先のエステルおばさんからカリンのひとつでももらってきたのに。と弟を小突いた。
「特別扱いすれば余計に気にするだろ。それよりも冷めないうちに早く食べよう」
 リビングでは、手洗いを終えたAJとキャスが彼に話しかけていた。数日前にサムが貸してやった携帯端末で軽いやりとりをしているらしい。グラスを手にリビングにやってきたサムを見て、彼は緩んでいた眉間の皺をまた深くした。それを気にせず、サムは甥っ子達に言った。
「母さんを手伝ってあげてくれ」
 AJとキャスが弾かれたように台所へ向かった。隣に座ったサムに、男は苦々しく呟いた。
「何が任務だ」
 しゃがれているどころか、瑞々しささえ感じる声だ。
 それに対し、サムは任務だったんだろう。とわざとらしく肩をすくめてみせた。
「ウィンター・ソルジャーとしての」



 原因はロキだった。
 あのお騒がせな神は突如バッキーとサムの前に現れると、面倒なことになった。と言った。
 おまえの存在以上に面倒なことがあるか? とサムが反射的に返そうとしたのも束の間、ロキは時間とアースを行き来するタイムドアの向こうからバッキーの腕を掴むと、来い。と告げた。二人ともその時にはすでにことの厄介さを悟っていた。ロキは神であり、TVAを名乗る組織に関わっている。アースと呼ばれる並行世界を行き来し、様々なアースの消滅の危機に向き合っている。サムはロキの手をバッキーから引き剥がそうとし、逆にバッキーはロキをタイムドアから引きずり出そうとした。
 しかしそれよりも、バッキーの足の下にもうひとつのタイムドアが開く方が先だった。
「は?」
 呟いたのはどちらだったか。二人は目の前のロキに気を取られすぎていた。異なる時間やアースをつなぐタイムドアは開く場所を問わない。ロキが腕を離すと同時に、ドアはバッキーの身体を吸い込み、即座に閉じた。ロキの現れたタイムドアも同じだった。
 後にはバッキーのいない部屋に、サムだけが残された。
「忘れていた」
 呆然とするサムの前に、ロキが再び現れた。そしてサムが口を開く前に、部屋に中身の詰まった赤黒いずだ袋のようなものを投げ込んだ。
 それは人だった。
 見間違えるはずがない。ウィンター・ソルジャーと呼ばれていた頃のバッキー・バーンズだ。
 驚いて血塗れの男へ手を伸ばしたサムを尻目に、ロキはわざとらしく疲れの滲んだ大きなため息を吐いた。
「しばらく預かっていろ。死なせるなよ。でないとあの男も死ぬからな」
 
 
 
 ふざけるな。とサムが叫んだのは言うまでもない。方々手を尽くして、ロキを捕まえるのに随分と骨が折れた。過去に偶然知り合ったデッドプールを名乗る傭兵、あるいはヒーローに、連絡先を押し付けられていなければ今もバッキーを探して走り回っていただろう。
「アベンジャーズは特別料金。こっちのスパディと会わせてくれたらさらに値引き。でもローガンにアベンジャーズに会ったってバレたら睨まれるから、この任務はローガンだけじゃなくローラとドッグプールにもオフレコで」などと宣うデッドプールは、しかし言葉の軽薄さとは裏腹に、値引き前の金額相応の仕事をやってのけた。翌日を待たず、サムにロキを引き渡したのだ。
「俺ちゃんの出番ってこれで終わり? カメオ出演だからしょうがない? クリス・エヴァンス担当キャラクター殺しておいて殺されないだけ良いと思えって? 殺したのは俺ちゃんじゃないし死んだのも白人男最後の希望じゃない! 新しいジョニーも誕生しただろ! 抗議する!」
 デッドプールは金を受け取っても意味のわからないことを叫んでなかなか帰ろうとしなかったが、バッキーが消えたと聞いて心配してやってきたスパイダーマンことピーターを見て目を輝かせた後、やはり意味不明な言葉を並べ立ててご機嫌で帰っていった。
「じゃ、俺ちゃん出ないかもしれないけど、機会があればまたDDで。ここでは過去だって? 未来かもしれないだろ。これを読んでる奴らにはどうか知らないけど」
 デッドプールがタイムドアを潜って消えた部屋はすっかりと静かになり、彼と喋ったことにより、くたくたに疲れた者達が残された。おかげでロキの尋問は随分と簡略化されたが、ロキはロキでサムの元に連れてこられるまでにベタベタと身体を触られたらしく、二度もデッドプールをけしかけられてたまるかと、彼にしては随分と素直に口を割った。
 長々とした話をまとめれば、どこか別の時間軸の異なるロキの立てた計画が失敗し、その尻拭いをバッキーはさせられているらしい。
「時間軸は二次元的に語られることが多いが、本来は三次元、四次元にも伸びた枝だ。その枝の一本を三次元方向にズラすことで、時間軸の『予備』ができないかと考えたようだ」
 しかし失敗した結果、異なるロキは虚無と呼ばれる空間からも消え去り、今サム達が存在するアースの過去が書き換わる可能性が出てきたという。
「書き換わった結果のひとつが『ウィンター・ソルジャー』の死だと?」
 サムは己の言葉にゾッと肌を泡立たせた。
 部屋に投げ込まれた血塗れのウィンター・ソルジャーの姿が脳裏をよぎる。
「そうさせない為の入れ替わりだ」
 そもそもウィンター・ソルジャーが死ねば、今はない。とロキが尊大に告げたので、サムは顔を顰めずにはいられなかった。
 ──ウィンター・ソルジャーが死ねば今はない。
 その通りだ。
 そんなことは、サムが一番良く知っている。
 ひとつため息を吐いたサムに、ロキは心配することはない。と告げた。
「書き換えは、本来存在すべき存在が消え、起こるべき出来事が起こらず、過去が不安定になるために起こる。ならばウィンター・ソルジャーの死を未来で食い止め、その間の過去はこちらの『バッキー・バーンズ』で埋め、同時進行でTVAがずらされた過去を別の枝として確立すれば入れ替わりも必要なくなる」
「バッキーにまたウィンター・ソルジャーとしての仕事をさせておいて、心配がないだと?」
 眉間に皺を刻んだまま薄く笑ったサムに対し、ロキはこのアースの消滅ではなく個人の心配をしていたのか? とでも言いたげに鼻を鳴らした。
「人と会った後は機械の椅子の上で寝るだけの過去だというのに、心配症だな」
 そんな訳があるか。とサムは思ったが、ウィンター・ソルジャーが目覚めた。という知らせがホアキンから入ったことで、反論の機会を失った。
 
 
 
 そこから先は、知っての通りだ。目覚めたウィンター・ソルジャーはアヨの手によって洗脳をとかれ、バッキーのすべきだったことをする羽目になっている。ロキから未来の流れも変えない方が良い。と忠告を受けたからだ。
 でなければこの休暇はバッキーが戻るまで延期していたはずだ。と思いながら、サムはひとつため息を吐いた。視線の先で、ウィンター・ソルジャーがウィルソン家の船に乗り込むのが見える。最近はAJとキャスによって内装の改修が行われており、そのお披露目を楽しみにしていたのはサムだけではない。
 海に溶け込むような朝の空は突き抜けるような晴天で、波は穏やかだ。
 バッキーが入れ替わっていなければ、計画通り良き休暇になっただろう。
 この里帰りに入れ替わったバッキーを連れて行くと告げた時、事情を知る者は全員サムを止めた。イザイアでさえ、後でバッキーに恨まれるぞ。と忠告をした。
 しかしサムは頑として自らの意見を譲らなかった。ロキの忠告に従わず、バッキーが戻れなくなれば本末転倒だ。
 後日このアースに戻ってきたバッキーに恨まれるか、それとももう二度と彼に会えない可能性に怯えつつ家で彼の帰りを待つか。
 どちらかを選べと言われれば、サムは迷いなく前者を選ぶ。
 更に、サムの行動は全世界が注目している。下手に休暇を取り止めれば、何か問題が起こったのかと事情を知らぬ者達に勘繰られるだろう。特に嗅覚の鋭い猟犬のような記者達は、常にアベンジャーズの周りをうろついている。下手に騒ぎ立てられれば、余計な混乱を起こしかねない。
 今もスマートフォンを構えたパパラッチの姿を見つけ、サムはそっと背後に忍び寄った。肩を叩けばギョッとした顔で振り向かれる。
「この辺は顔見知りばかりだ。警官もな。下手なことはするなよ」
 他人の顔も撮るな。と肩を握った手に軽く力を入れ、パッと離せば転がるように逃げていく。その背が見えなくなるまで目で追って、ようやくサムはウィルソン家の船に乗り込んだ。
「おじさん、遅いよ」
 サムを探しに来たのだろう、船を降りようとしていたAJに謝って、甥っ子に続いて船室の扉をくぐる。そして壁に貼られたものを見て、自然と頬を緩ませた。そこに貼ってあったのは、四季折々の家族写真だ。ヒーロースーツを着たサムとバッキーのポスターもある。
 そしてそれらの写真のすぐそばで、居心地悪そうにしながらもサムのポスターから目を離せずにいるのはウィンター・ソルジャーだ。
 銃火器を扱うために皮膚の分厚くなった指が、そっとポスターに伸ばされた。
 その指が触れたのは盾だった。
 サムは彼の隣に並んで言った。
「確かに、スティーブの写真とポスターも貼った方が良いな」
 サムの言葉に、バッキーが弾かれたように顔を上げた。
「バッキーの写真があるなら当然だろう」
 そう言ったサムは甥っ子達を捕まえて、心ゆくまで内装を褒め称えた後、二人に問いかけた。
「スティーブのポスターと、他にも写真を何枚か増やしても良いか?」
「良いに決まってるじゃん」
「じゃあポスターを買って、写真を現像しに行くか」
 おまえも聞きたいことがありそうだからな。とウィンター・ソルジャーに小声で告げたサムは、スマートフォンを取り出した。その画面には屈託のない笑顔を浮かべたスティーブ・ロジャースと、サムがまだファルコンとして空を飛んでいた頃のアベンジャーズのメンバーが写っていた。
 
 
 
 ウィンター・ソルジャーが口を開いたのは、彼とサムの乗った車がしばらく走った後だった。
「ヒドラの洗脳を解かれ、盾を見せられても、あのポスターを見るまで今のキャプテン・アメリカがおまえだと、どこかで信じちゃいなかった」
「俺が超人じゃないから?」
 わざとからかうように言えば、ウィンター・ソルジャーは眉根を寄せた。バックミラーに写った男の目付きの悪さに、サムは声を上げて笑ってみせる。
 バッキー・バーンズがこうした顔をする理由に、相手への心配が含まれていると気付いたのは随分と前のことだ。
 上機嫌を隠さぬサムに、ウィンター・ソルジャーはひとつ息を吐いて、そうだな。とサムの言葉を認めた。
「俺の知っているキャプテン・アメリカは、スティーブも、黒人の男も、どちらも超人だった」
「イザイアな」
 サムは言った。
「こっちのバッキーには詳しく聞いてなかったが、洗脳中の記憶もそれなりにはっきり残ってるんだな。イザイアはまだピンピンしてるから、会いたいなら会いに行けばいい」
「向こうは会いたくないだろ。殺しそびれたヒドラの暗殺者が会いに来るなんて悪夢だ。話すこともない。あの男の動きや耐久性ははっきり覚えているが、覚えていなければヒドラに情報を持ち帰れないから覚えているだけだ。兵器も技術も、一日あればすっかり変わる」
「なるほど」
 サムは赤信号にゆったりとブレーキを踏んで、後部座席に座った相手と目を合わせた。
「ちなみに、こっちのバッキーはイザイアに悪夢を見せたぞ」
「は?」
 ウィンター・ソルジャーが疑問を呈する前に、サムは進行方向へ視線を戻し、赤信号は青に変わった。
 目的地の大型量販店は、常のように賑わっていた。
 サム・ウィルソンが、あるいはジョン・ウォーカーが盾を手にした後も、スティーブの人気は根強いままだ。ポスターはすぐに見つかり、写真も難なく現像が出来た。
「どれが良い?」
 保存された写真から数枚を選ぶ際、サムは隣の男にも意見を求めた。
 急がないから納得するまで選んで良い。というサムの言葉に逆わず、ウィンター・ソルジャーはスティーブの写真を全て開き、眺め、そして名残惜しそうにしながら一枚を選んだ。
 それはスティーブが、彼の家族と共に笑っている写真だった。
 帰りの車に乗り込む時、ウィンター・ソルジャーは無言だった。サムはあえて口を噤んだ。サムの管理するクラウドの中に、スティーブとバッキーが揃っている写真はごくわずかだ。ラフト収監中や逃亡中、あるいは塵になっていた五年の間に失われた写真も多い。その証拠にサムのクラウドの中の写真のほとんどが、ブルースやローディといった友人達や、ファン活動の一環でアベンジャーズの写真を集めていたホアキンから譲られたものだった。
 ウィンター・ソルジャーが口を開いたのは、ウィルソン家が近くなってからだ。
「黒人のキャプテン・アメリカ、イザイアが生きていると言ったな。スティーブはどうした?」
「……月にいる」
 サムは慎重に答えた。洗脳がとけた後、自分の置かれた現状をできる限り正確に把握しようと努めてきた彼が、スティーブについて聞くのは初めてだった。
「何かの任務か?」
「好きに受け取ってくれて良い。ひとつ言えるのは、スティーブはここにいないということだ」
「そうか」
 そうか。とウィンター・ソルジャーは繰り返した。彼の選んだ写真は、スティーブがタイムトラベルを行った後に撮られた写真だった。
 ブルーグレーの瞳が窓の外を映す。真昼の空は晴れ渡っており、今夜は月がよく見えるだろう。



 帰宅後、遅めの昼ごはんを食べ、サラや甥っ子達と共に細々とした家事を終わらせると、サムとウィンター・ソルジャーは船へと戻った。事前に甥っ子達に伝えていた通り、新たに数枚の写真とスティーブのポスターを貼る為だ。二人ですでに貼られていたポスターや写真の位置を変え、ついでにデッキの掃除も終えた頃には、もう太陽が西の果てに沈もうとしていた。
「なあ」
 デッキブラシを持って夕日を眺めていたサムに、ウィンターソルジャーが聞いた。
「いつから俺と一緒にいるんだ?」
 サムは夕日に照らされた横顔を見た。目が合えば、小さく肩をすくめられる。
「俺との写真もあっただろう。随分と……」
 ウィンター・ソルジャーは少し言葉を選んだようだった。
「わかりやすい顔をしていた」
 サムにはそれがどんな顔か、すぐにピンときた。おそらく彼はAJが選んだのだという写真を見たのだろう。サムが盾を手に取り、その度に数百万人から憎まれる覚悟を決めた後、バッキーが下院議員を目指す前にこの場所で開いたパーティで撮られたものだ。
「驚いたか?」
 サムはデッキブラシに寄りかかりながら聞いた。
「驚いた」
 ウィンター・ソルジャーは頷いた。
「何人も殺した後に、あんな顔が出来るようになるとは思わなかった」
 サムは小さく息を飲んだ。ジモが盗み、暴いたスティーブのノートに書かれていた名前を、サムが把握することは終ぞなかった。
 サムは目の前の男を見た。車の中で、洗脳中の出来事を覚えていると彼は言った。
 この男に、もう殺さなくても良いと告げたのは、洗脳をといたアヨだった。
 サムはワカンダでのバッキーをほとんど知らない。聞かされてもいない。
 であればこの男の言葉を、あるいはウィンター・ソルジャーとして洗脳をとかれた際のアヨとのやりとりを、己のよく知るバッキーに重ねるのは無駄なことだ。
 サムは西の空に視線を戻した。太陽はいよいよ影を残すのみとなっている。
「俺は誰かの代弁なんてできないし、俺の感じたことしか言えないが」
 もうサムは、デッキブラシに寄りかかってはいなかった。
 バッキーと出会ってから、サムは彼に翼をもがれて殺されかけたことも、彼を救おうとしたスティーブを信じラフトに収監されたことも、アベンジャーズという名前を巡って対立したこともある。もう一生分かり合えないと、彼を諦めたこともある。それでもサムは、今、己のよく知るバッキーが隣にいて欲しいと願っている。
 サムは笑った。
 目の前の男を目に映しながら、全く違う表情を脳裏に描いていた。
「俺はバックの、あの顔が見れて良かったと思っている」
 それが何よりの答えだった。
 サムのよく知る男の顔をしながら、全く違う表情を浮かべたバッキー・バーンズは、眩しそうにサムを見つめた後、東の空へと視線をやり、小さく笑った。
「おまえは、俺には少し歳を取りすぎてると思うけどな」
 その言葉に、サムは小さく吹き出した。
「爺さんがよく言う。ただ、そうだな。俺にとっても、おまえはまだ若造だよ」
 ──俺の惚れた男には、到底届かないくらいに。
 いよいよ太陽の名残は空から消え去り、東の空に月が現れる。
 サムに促されてデッキブラシを片付けたバッキーは、船を降りた後、サムに問いかけた。
「……いつか、俺にもあんな顔ができると思うか?」
「さあ? おれは神じゃないし、アンドロイドでも異星人でも魔法使いでもない。予言も未来予知もできない人間だ。そんな人間が、他人の未来を安請け合いできるはずがないだろ。……俺に出来るのは、信じることだけだ」
「俺がおまえの『バッキー』みたいになるって?」
「ばか。違う。俺が信じるのは、おまえと、おまえの戻る場所にいる人達が、より良い世界を作ることだ」
 夜空を背にしたサムの瞳に、電灯の光が星のようにきらめいている。
「おまえ一人で、あんな風に笑えるわけないんだから」
 バッキーは空を見上げた。
 そこには少し欠けた月が、バッキーを見つめるように煌々と輝いてた。
 
 
 
 デッドプールからサムに連絡が届いたのは、翌日の午前三時のことだった。
「ハロー。ご機嫌いかが? カメオ出演はもう終わったって? 俺ちゃんがそんなこと気にすると思う? こちとら白い粉が大好きなババアと食べ飲み盛りのクズリ親子と幾つになっても可愛いパピーと同居してんの。エンゲル係数考えたら仕事しなきゃ。おっと。白い粉はもちろん白砂糖のことだから隠語を検索しないように。ちなみにこの依頼はウルヴァリンに最初届いたんだけど、アベンジャーズ案件だったから俺ちゃんに回ってきたわけ。決してヒュー・ジャックマンの出演料をケチったわけじゃない。『くたばれアベンジャーズ』って何やったの? おかげで前回の依頼もばれて刺されちゃった。医療費はツケとくからな! ヒーリングファクターで勝手に治るけど。あ、そうそう。今回の電話だけど、バッキーを明日、じゃなくて今日中に元に戻すからそれを伝えてくれってさ。じゃあまったね〜」
 言うだけ言って電話が切れた。デッドプールにもロキにも番号を教えていない緊急連絡用の端末にかかってきたのは、ロキの嫌がらせをひしひしと感じる電話だった。
 短い着信音に起こされたサムは、軍隊で訓練された反射神経で通話ボタンを押した後、口を挟む暇もないマシンガントークに閉口したものの、最後の最後に告げられた要件に慌ててベッドから這い出した。
 サラ達を起こさぬよう気をつけながら向かった先は、バッキーがいるはずの客間だった。
 ドアノブに手を伸ばす。
 しかしそれより先に、内側からドアが開いた。
「バッ」
「サム!」
 名前を呼ばれて抱きしめられる。その声に、サムはこっそりと唇を噛んだ。
 入れ替わっている間、サムはあの男の名前を呼ぼうとしなかった。そしてあの男も、同じようにサムの名前を呼ぼうとしなかった。サムにとっては願掛けのようなものだったが、今更ながらに彼の名前を呼ばなかったことが悔やまれた。
 ウィンター・ソルジャーと呼ばれる男は、いったいあとどのくらいの時が経てば、己の名前を他者に呼んでもらうことが出来るのだろう。
「サム」
 バッキーがほんの少し身体を離した。サムは彼が紡ぐ己の名前に食らいつくように、バッキーに口付けた。
 もつれるように客間へ入り、サムは後ろ手にドアを閉めた。どちらからともなく舌を絡め、吐息が熱を上げていく。サムはバッキーの背中に腕を回し、メタルアームがサムの身体を撫でた。
 しかし機械の手が何かに気が付いたように動きを止め、名残惜しそうにサムのシャツを握った。
 サムもほとんど同時に我に返り、バッキーから唇を離す。眉を下げた相手を見ながら熱の籠った息を吐き、サムは唇を手の甲で拭った。
「俺も、ホテルに泊まっとけば良かったと思ってる」
 やっぱりか。と言うように、バッキーがドアの外を指差した。
「すぐそこでサラが寝てる?」
「ああ」
 頷けば、バッキーが天井を見上げた。サムは火照った頬を彼の肩口に擦り寄せた。
 顔を見せようとしないサムに、バッキーはもう一度問いかけた。
「……報告も済ませたのか?」
「ああ……」
 バッキーからロキへの呪いの言葉が飛び出した。予想は付いていたが、少しだけ心が痛む。次の機会があれば、サムは躊躇いなくロキを殴るだろう。今回殴らなかったのは、ひとえにデッドプールのことがあったからだ。
 慰めるようにバッキーに口付けて、とはいえ。とサムは続けた。
「結婚のことは言ってない。言ったのは引退のことだけだ」
「そ、」
 それこそ。とバッキーは頬を引き攣らせた。
「おまえが盾を手放すと決めた時こそ、俺が隣にいなきゃならなかっただろう」
 腕に力を込められて、サムは苦笑する。世界の危機で、星条旗を背負って立つには致命的な怪我をした。しかし引退に悔いはなかった。それだけのことを、目の前の男と共に成し遂げた。
「でも、おまえが戻って来なかったら意味がない」
 バッキーに恨まれるか、それとももう二度と彼と会えない可能性に怯えるか。
 どちらかを選ぶなら、サムは前者を選ぶ。
「俺も会いたかった」
 盾をサムに手渡したのはスティーブだ。しかしサムにキャプテン・アメリカとして、星条旗を背負った黒人として、人々に憎まれることを覚悟させたのはバッキーだ。
 今度は、バッキーがサムの言葉を奪う番だった。お互いの想いはもう知っていて、言葉の代わりに吐息を交わす。それでもこれだけはと、サムは息継ぎの合間にバッキーに告げた。
「休暇は明後日で終わりだが」
 そして十分な余裕を持ってこの家を出たかったため、飛行機は明日の昼過ぎの便を手配してある。ニューヨークのバッキーのマンションには夕飯の時刻より少し早く着く予定で、夜はゆっくりと寝て、明日は仕事に備えて気持ちを切り替えるはずだったのだが。
「今回はロキが原因で走り回ることになったから、バッキーが帰ってきたら追加で休暇を取れとホアキンから言われてる。……どうする?」
 とサムに言われ、バッキーはもちろんその提案に、一も二もなく飛びついた。
 
 
 
 バッキーのマンションに帰るまで、二人は始終無言だった。バッキーは喉の怪我の演技をしなければならなかったこともあるが、どうしてか喋る気にならなかった。サラに不審がられたが、ろくな言い訳もできずに再訪を約束してデラクロワを離れた。
 気が急いて仕方がなかった。
 そのくせニューヨークの空港でちゃっかり軽食用のパンを買い、気になっていた銘柄のスタウトを半ダース手にしてタクシーに乗ったのだからおかしなものだ。
 ホアキンの送迎を断って良かったと、サムはこっそり考えた。
 二人の緊張感を察したのか、思ったより早くマンションへと運んでくれたタクシー運転手に多めのチップを渡し、エレベーターに乗り込んだ。
 エレベーターを降りた後は、自然と早足になっていた。
 職業柄か、足音はほとんどなかった。競い合うように部屋の前まで行き、ドアを開け、押し合うように部屋の中に入り、音を立ててドアを閉めた瞬間に、二人は揃って吹き出した。
「ばかみたいだ」
 けれどサムとバッキーは、出会った時からずっと子供みたいなことをしていた。
 鞄やビールは廊下に置いて、上着を脱ぎ散らかし、サムはシャワーを浴びるために風呂場へ、バッキーは寝室へとまっすぐ向かう。
 サムが準備を済ませ、下着姿で寝室のドアを開ければ、すぐに手を引かれてベッドに押し倒された。
「おまえはシャワー浴びなくて良いのか?」
「嫌じゃないだろ?」
「まあな」
 言いながら、仰向けのままバッキーの服を脱がしていく。シャツのボタンを外せば鎖骨周りに治りかけの痣が現れ、サムは我知らず眉根を寄せた。
「戦車とでも戦ったのか?」
 バッキーは首を傾げたが、サムが痣を指で示せば、忘れていたと言うように頷いた。
「ああ、これか。イザイアだ」
「は?」
「ロキに何の説明もなく連れて行かれた場所が高陽だったんだ」
 苦々しげにバッキーは呟いた。
「知らないうちにメタルアームの色を変えられて、目の前に全盛期のイザイアがいたんだぞ。殺し損ねた相手が無傷で戻ってきたからイザイアも気が立ってて手加減なんてできるわけがないし、ワカンダ製のメタルアームじゃなきゃどうなってたか。……本当に」
 バッキーは深い息を吐いた。
「殺さずにすんで良かった」
 バッキーの黒いメタルアームは、シュリによって作られている。それ故に他者を傷付けることより身を守ることを優先して設計されているが、どんな技術も使い道を間違えれば毒となる。いくら超人兵士相手でも、あの時代にワカンダ製の現代武器は過ぎた力だ。
 サムは手を伸ばし、己に覆い被さったバッッキーの背を軽く叩いた。
「やっぱり、ロキを殴っておけば良かったな」
 人と会った後は機械の椅子の上で寝るだけの過去なんて、嘘を吐くにも程がある。
「俺も次の機会にはメタルアームで殴ってやる」
「ま、二度と会わないのが理想だけどな」
 サムがバッキーのメタルアームを手に取り口付けた。それだけで、バッキーの瞳に熱が灯る。サムの手がバッキーの頬に伸びる。
「何か付いてるか?」
「いや」
 サムは首を振った。
「表情が全然違うと思ってな」
「俺と入れ替わったウィンター・ソルジャーか?」
「ああ」
 サムは別れも言えずに別のアースへ戻っていった男を思い出す。同じ顔をして、同じ過去を持ちながらも、サムは彼が目の前のバッキーとは別人だとしか思えなかった。すぐそばにいて何度も言葉を交わしたが、彼が何を考えていたか、サムは終ぞ分からなかった。
「おまえは、こんなに分かりやすいのにな」
 ブルーグレーの瞳にサムが映っている。
 あのバッキーに、情が沸かなかったわけではない。
 しかし彼はサムの知るバッキーではなく、そして戻る場所があった。
「なあバッキー。バック。……ジェームズ。あの時ああしていたらなんて何度も考えてきたが、いざ『それ』を目の前にすると、怖くなるものだな」
 サムは存在を確かめるようにバッキーを抱きしめて、ほっと小さく息を吐いた。過去を変えれば未来は変わる。以前聞いたデッドプールの話がそれを証明している。
「あの男が過去に戻った後、おまえが俺の隣から消えていたらと考えたら、怖かった」
 彼が戻る過去、あるいは未来をこの時間軸と別の時間軸として確立させると聞いていても、それが本当に問題なく実現されるかは分からなかった。蝶の羽ばたきで世界は変わる。剪定される可能性も、バッキーが戻らない可能性も考えた。
 ワカンダに協力を頼んで彼の洗脳をとき、そしてワカンダ製の最新技術を使った腕すら渡したのは、機会を得ながら過去を変えることを恐れた罪悪感もあったからだ。彼に『信じる』と告げておきながら、なんとも自分勝手なことだ。けれどサムは、いつだってバッキーのことになると己の欲求を隠せない。
 サムは小さく笑った。
「こうしておまえが戻ってきて、ようやく怖くなくなった」
「サム」
 バッキーが、サムを強い力で抱き返した。そのブルーグレーの瞳には、強い光が宿っていた。
「おまえが望むなら、俺は必ずおまえの隣に戻ってくる」
 サムはわずかに目を見開いた。そして胸の奥から込み上げてくるものを堪え、彼に告げた。
「愛してる」
 愛してる、バッキー。と繰り返したサムは知っていた。サムの言葉にバッキーが同じ応えを返すことを。
 もう、ずっと前から知っていた。
 
 


 ※
 
 


 カフェでコーヒーを楽しんでいたバッキーは、待ち合わせ相手であるスティーブを見つけ、息を飲んだ。彼の隣にいつかの過去、もう到達しえない未来で出会った存在がいたからだ。
 スティーブがバッキーに手を振って、二人でテラス席までやってくる。
 バッキーはスティーブにいつもの軽口を叩き、横の人物を見た。相手はサングラスの向こうから、もの珍しげにバッキーを見つめている。その視線に気付いたスティーブが、隣の人物にバッキーを紹介した。
「サム、スミソニアン博物館にも説明があるけど、彼はジェームズ・ブキャナン・バーンズ。僕の親友だ。ヒドラに洗脳されてたけど、僕が凍っていた間にワカンダで助けられたらしい。今はかの国との調整役をしてくれている。バッキー、こちらは元空軍の落下傘部隊の」
「サム・ウィルソン」
 バッキーがスティーブの言葉を遮ってサムの名前を呼べば、二人が目を見開いた。
「知り合いだったのか?」
「いいや、初めましてだ」
 でも知ってる。というバッキーの言葉に、二人はやはり怪訝そうな顔をした。分たれた未来のことは、スティーブにも告げていない。バッキーは二人の表情に肩をすくめ、口を開いた。
「まあ、話は長くなるんだが……」
 と、喋り始めたバッキーの話は、また別の話。
 まだ誰も知りえない、別の未来の話であった。