愛は置いて行くけれど
爆発が起きた。教会が吹き飛ぶような爆発だ。移民コミュニティを狙ったもので、『移民』以外の全ての属性の区別なく、その場にいる者を殺すためのものだった。
「ケイト!」
光が弾けた瞬間に、ケイトの耳は住民の非難を進めていたクリントの声を捉えていた。しかし今は全ての音が曖昧だ。クリントの指示も聞かずに実行犯の一人と見られる人物の背を追って、爆発に巻き込まれてしまったからだ。
地面に叩きつけられながら、しかし思ったよりも身体の痛みが少ない事を不思議に思う。身体の震えを抑えながら、二、三度瞬きをした後に、己が誰かに庇われたのだと気が付いた。
「……バッキー・バーンズ?」
ケイトを抱き込み、己の身体で庇っていたのは思いもがけぬ男であった。ケイトは咳き込みながら彼の名を呼んだ。その声すら己の耳には届かない。
ケイトは睨み付けるようにバッキーを見た。近しい人達から彼の話を何度も聞いていたからか、焼き付いた光が視界に散って、三半規管が上手く働いておらずとも、彼をニュー・アベンジャーズのバッキー・バーンズと断定するのに躊躇いはなかった。
「どうしてここに」とありきたりな問いを口にする前に、バッキーの視線が他へと移る。
「サム……」
ケイトは確かにバッキーの口がそう動くのを見た。視線を追って空を見上げれば、機械の翼を背にしたキャプテン・アメリカが近づいている。彼は土埃を割くようにして地面に降り立った。
バッキーに支えられながら、ケイトはふらつく足を叱咤し立ち上がる。弓を杖代わりにしなったのは、ただの強がりだ。サムはケイトの姿を見て、わずかに眉を顰めてみせた。
「クリントが探していた。怪我は」
問題ないと言おうとしたが、急な目眩で上手く言葉が出てこない。耳が使えないにも関わらず、視界まで歪んだことに、ゾッと肌が泡立った。吐き気をこらえ、地面の感覚がゆっくりと戻るのを待つ。ようやく輪郭を取り戻し始めた視界に、見知ったグローブが見えた。ケイトが己を支える腕の持ち主を確認すれば、いつの間にかサムに支えられていた。
彼はケイトを見ていなかった。その視線が捉えていたのはバッキーだ。
サムが口を開いた。
「……協力、感謝する。他のメンバーにも伝えておいてくれ」
どうやらケイトが目眩を起こしている間に話はついたらしい。対立関係にあるニュー・アベンジャーズの協力を、サムが受け入れたのは意外なことではなかった。今、何よりも優先すべきは被害の確認と救助であり、それを間違えるような人ではなかったからだ。
ケイトがバッキーに目を向ければ、バッキーは小さく頷いた後「サム」とキャプテン・アメリカに呼びかけた。
「愛してる」
場違いな言葉だと、どうしてか思えなかった。バッキーは応えを期待していなかったのか、すぐさま背を向けて瓦礫の山へと走り出す。
サムが小さく息を吐いたのは、ほんの数秒後のことだ。
「 」
ケイトはその時、確かにサムの口が小さく動くのを見た。それはおそらく、サム自身にも届かなかった言葉であった。
しかしケイトはその無意識の言葉を知ってしまった。
まずい。と思ったのは、サムの為か、あるいは自分の為か。もうケイトには分からない。
頭の中に、クリントの言葉が木霊する。
使う場所はよく考えろ。と彼は言った。
母と決別し、クリントの元に身を寄せてから、ケイトが学んだことは多くある。ルールのない場所で身を守る術、目立たず情報収集を行う方法、トリックアローの種類と使い方……。中でも読唇術は、万が一の為にと教えられたものだ。
戦いの中で聴力を失いかけた男が、ケイトがこの技術を使う日が来ないことを望んでいたのも知っている。
だからケイトは誰にも読唇術のことは告げておらず、故にサムも、その言葉を読み取られるとは思ってもみなかったに違いない。
——I hate
読み取れたのはこの二言だけだった。それ以外の言葉はサムの胸中に押し留められた。そして次の瞬間にはケイトに対して安心させるように笑っているサムを見て、ケイトは思わず眉を下げた。
なぜならそれがケイトの初めて見た、サムの人間らしい執着だったからだ。
空軍基地に設けられたキャプテン・アメリカ専用のオフィスで、サム・ウィルソンは深い息を吐いた。いつもならホアキン・トレスに仮眠を勧められるような疲れの滲んだものであるが、オフィスに彼の姿はない。今頃は病院で手当てを終えて、帰路についているだろう。今日の任務で付けられた腕の切り傷は浅いものだったが、最近はダークウェブで取引された爆発物を追い、基地の仮眠室か車内で寝泊まりしていたホアキンだ。いい加減夜食がわりのレーションにも飽きただろうと、サムが今日は家に帰るように言い含めたからだ。
何かと喋りかけてくるホアキンがいないオフィスはひっそりとしており、だからだろうか、ため息の音が妙に耳につく。それでも口から漏れ出る息を止められないのだから重症だ。
サムはひとつ首を振った。
考えるべきことはわかっている。フラッグスマッシャーズが解体されてから、移民を狙った事件は増え続けていた。大きな被害こそ食い止めているが、その手口はどんどん巧妙になっている。今日は子供を含めた数名が骨を折るなどの重傷を追い、協力を仰いだホークアイ——クリント・バートンではなく彼からその技術と名前を受け継いだケイト・ビショップ——が、爆発で鼓膜を破られ、離脱を余儀なくされた。幸い怪我の程度は軽く、その他に目立った負傷はなかったものの、バッキーがいなければ、どうなっていたかは分からない。
——最近は誰にでも「愛してる」を乱発するんだな。
バッキーの顔を思い出した瞬間、ケイトを回収しに来たクリントに言われた言葉が蘇る。あれは明確な皮肉だった。聞こえていたのかとは言わなかった。彼の耳に付けている機械がなんなのか、サムは知らない訳ではない。そして彼の勤勉さを思えば、読唇術くらいは身に付けていてもおかしくはなかった。サムが他国の言葉を覚えようと必死になっているのと同じことだ。
そしてサムが翼を背負ったホアキンに対して慎重になっていたのと同じように、クリントが生き延びる術として、ケイトに読唇術を教えていてもおかしくはなく、バッキーが背を向けた後、サムがうっかりと溢しそうになった言葉を知られていなければ、ケイトがあんな表情をサムに向けるはずがないことも分かっていた。
無意識のうちに、何度目か分からぬため息を吐き出して、サムはチラリと己の携帯端末を見た。通知にバッキーの名前はない。あるはずがないのだ。バッキーを拒絶したのはサムなのだから。
ニュー・アベンジャーズがテレビに映った時、サムが驚いたのはバッキーがそこにいたからだけではなかった。エレーナやエイヴァ、クリントやスコット・ラングから聞いていた、心残りとなっている者達がいたことにも、動揺を隠せなかった。
家族がいた。とクリントは言っていた。彼はナターシャの死を、意味あるものにしてしまったことを悔いていた。そして彼にとって最も大事なものは家族だ。目の前で死んだ親友が、生きていればと考えなかったことはないだろう。そしてスコットは、たった十七歳の少女を死の恐怖に怯えさせたまま、五年の間一人にしたことを悔いていた。知らなかった。は、ただの言い訳だ。
瞼の裏に、カーリの姿が蘇る。
世界を救ったからとてそれが救いにならない人達がいることを、もう嫌というほど知っている。
そうした人たちよりも、気にかけるべきことはあるだろうと告げる人もいる。実際、フラッグスマッシャーズが解体され、急速に憎悪を向けられるようになった移民コミュニティをサムが訪れるだけで、酷い噂がネット上に飛び交った。カーリを慕っていた移民の中にもサムに不信感を抱き、離れていく者もいた。
そうしてサムが取り溢したものを、いつからかバッキーが気にするようになっていた。
ニュー・アベンジャーズの発表があった日、バッキーは電話越しにサムに対して言った。
一人で全てを抱え込むような真似をするな。と。
お前が言うのか。とサムは呆れた。同時に、お前だからこそか。とも思った。思ってしまった。
だからこそ許す訳にはいかなかった。
サムがキャプテン・アメリカとして国や世界のことを考えるようになると共に、バッキーがサムのことを優先するようになっていたことには気付いていた。それでも議員を目指し当選したからには、その傾向も和らぐものと思っていたが、結果的にヴァレンティーナ・アレグラ・デ・フォンテーヌを泳がせることになってしまった。彼女が利用していた者の中にエレーナやエイヴァがいたからだ。
彼女達をヴァルと共にラフトに放り込めば、お前はその事実を抱え込む。とバッキーは言った。
その通りだった。
同時にゾッとした。
情の深い男だ。彼のように洗脳され、あるいは選択肢を奪われ、生きる兵器として実験体にもされていた者達への同情や共感もあっただろう。ワカンダでホワイトウルフと称されていたように、バッキーは『群れ』で生きることに向いている。世間から爪弾きにされ、ヴァルに利用された彼らを救いたいという気持ちもあったに違いない。
しかし同時に、彼の選択の先に己がいることも確かだった。
誰かの死は怖い。大事な者の死であるなら尚更だ。ライリーの死からずっと、サムにとっての恐怖は他者の死にあった。そしてバッキーはサムの恐れを知った上で、それらを丁寧に拾い上げようとする。
だからこそサムはバッキーを遠ざけ、バッキーを止めなければならなかった。他者を背負うならば自分がと、それだけは譲れず。
しかし今日、ケイトがバッキーに庇われたのを見て、サムは安心した。安心してしまったのだ。
——I hate to admit it, I’m glad you’re here.
あの時、バッキーに告げそうになった言葉がこれだった。ホアキンの手術を見守った際に告げた言葉と同じもの。自分から彼を遠ざけたにも関わらず、本心から出てきた言葉であった。
サムはひとつ息を吐く。この息と共に彼への想いも吐き出して消してしまえればどんなに良いかと思いながら、しかしそれができないことも、もうサムはとっくの昔に分かっていた。