I know
サラへの報告が遅くなったのは、メッセージアプリやビデオ通話を使うのは味気ない。とバッキーが反対したからだ。そうこうしているうちにマスメディアにすっぱ抜かれるんじゃないかとサムは思ったが、口のかたい友人知人達のおかげで、第一報は無事にサムの口から告げられた。
ラフト収監どころか、アベンジャーズの再編もニュースで知ったのに。と笑ったサラは、久しぶりに生家へ帰ってきた弟が、自分に何を告げるのかを分かっていたようだ。その夜の食卓にはサムの子供の頃からの好物と、色鮮やかなケーキが並べられた。それどころか朝食用にオレンジジュースも用意してあると聞いて、サムはこっそり舌を巻いた。
「ところで、バッキーはどうしたの?」
すっかり大きくなったAJとキャスを洗面所に押し込み、台所でサラはサムに耳打ちをした。その視線の先には眉間に深い皺を刻んだ『バッキー』がいる。おそらくサラは初めて見る姿だろう。目付きの悪さに警戒心の高さが現れている。
サムはその姿を少し気の毒に思いながら、人数分のグラスを取り出して、喉がな。と告げた。嘘だった。嘘は吐きたくない。しかし安易に伝えて良いことでもない。海千山千の政治家達とも弁論で渡り合ってきたサム・キャップの口からは、それらしい嘘が矢継ぎ早に飛び出した。
「急な任務で喉と腕をやられたんだ。しばらく喋らせるなと医者から厳重に言い渡された。バッキーには自分から告げると駄々をこねられたが、ホラー映画の幽霊みたいなしゃがれ声になっててな。そんな声でAJやキャスを怖がらせるより、早く治して後からビデオ通話でもしてやってくれ。と説得して、ようやく頷かせた。……とはいえ頭で分かっていても気持ちまでは追いつかないみたいでな。AJやキャスの名前を出したから、治ったらしばらく通話でうるさくなるかもしれないが、目をつぶってくれると助かる」
キャスやAJをメタルアームにぶら下げて遊んでやった時から、バッキーが二人を変わらずに可愛がっているのはサラも知っている。彼女はホッとしたように息を吐いた後、言ってくれれば三軒先のエステルおばさんからカリンのひとつでももらってきたのに。と弟を小突いた。
「特別扱いすれば余計に気にするだろ。それよりも冷めないうちに早く食べよう」
リビングでは、AJとキャスが彼に話しかけていた。数日前にサムが貸してやった携帯端末で軽いやりとりをしているらしい。グラスを手にリビングにやってきたサムを見て、彼は緩んでいた眉間の皺をまた深くした。それを気にせず、サムは甥っ子達に言った。
「母さんを手伝ってあげてくれ」
AJとキャスが弾かれたように台所へ向かった。隣に座った男に、彼は苦々しく呟いた。
「何が任務だ」
しゃがれているどころか、瑞々しささえ感じる声だ。
それに対し、サムは任務だったんだろう。とわざとらしく肩をすくめてみせた。
「ウィンター・ソルジャーとしての」
原因はロキだった。
あのお騒がせな神は突如バッキーとサムの前に現れると、面倒なことになった。と言った。
おまえの存在以上に面倒なことがあるか? とサムが反射的に返そうとしたのも束の間、ロキは時間とアースを行き来するタイムドアの向こうからバッキーの腕を掴むと、来い。と告げた。二人ともその時にはすでにことの厄介さを悟っていた。ロキは神であり、TVAを名乗る組織に関わっている。アースと呼ばれる並行世界を行き来し、様々なアースの消滅の危機に向き合っている。サムはロキの手をバッキーから引き剥がそうとし、逆にバッキーはロキをタイムドアから引きずり出そうとした。
しかしそれよりも、バッキーの足の下にもうひとつのタイムドアが開く方が先だった。
「は?」
呟いたのはどちらだったか。二人は目の前のロキに気を取られすぎていた。異なる時間やアースをつなぐタイムドアは開く場所を問わない。ロキが腕を離すと同時に、ドアはバッキーの身体を吸い込み、即座に閉じた。ロキの現れたタイムドアも同じだった。
後にはバッキーのいない部屋に、サムだけが残された。
「忘れていた」
呆然とするサムの前に、ロキが再び現れた。そしてサムが口を開く前に、部屋に中身の詰まった赤黒いずだ袋のようなものを投げ込んだ。
それは人だった。
見間違えるはずがない。ウィンター・ソルジャーと呼ばれていた頃のバッキー・バーンズだ。
驚いて血塗れの男へ手を伸ばしたサムを尻目に、ロキはわざとらしく疲れの滲んだ大きなため息を吐いた。
「しばらく預かっていろ。死なせるなよ。でないとあの男も死ぬからな」
ふざけるな。とサムが叫んだのは言うまでもない。方々手を尽くして、ロキを捕まえるのに随分と骨が折れた。過去に偶然知り合ったデッドプールを名乗る傭兵、あるいはヒーローに、連絡先を押し付けられていなければ今もバッキーを探して走り回っていただろう。
「アベンジャーズは特別料金。こっちのスパディと会わせてくれたらさらに値引き。でもローガンにアベンジャーズに会ったってバレたら睨まれるから、この任務はローガンだけじゃなくローラとドッグプールにもオフレコで」などと宣うデッドプールは、しかし言葉の軽薄さとは裏腹に、値引き前の金額相応の仕事をやってのけた。翌日を待たず、サムにロキを引き渡したのだ。
「俺ちゃんの出番ってこれで終わり? カメオ出演だからしょうがない? クリス・エヴァンス担当キャラクター殺しておいて殺されないだけ良いと思えって? 殺したのは俺ちゃんじゃないし死んだのも白人男最後の希望じゃない! 新しいジョニーも誕生しただろ! 抗議する!」
デッドプールは金を受け取っても意味のわからないことを叫んでなかなか帰ろうとしなかったが、バッキーが消えたと聞いて心配してやってきたスパイダーマンことピーターを見て目を輝かせた後、やはり意味不明な言葉を並べ立ててご機嫌で帰っていった。
「じゃ、俺ちゃん出ないかもしれないけど、機会があればまたDDで。ここでは過去だって? 未来かもしれないだろ。これを読んでる奴らにはどうか知らないけど」
デッドプールがタイムドアを潜って消えた部屋はすっかりと静かになり、彼と喋ったことにより、くたくたに疲れた者達が残された。おかげでロキの尋問は随分と簡略化されたが、ロキはロキでサムの元に連れてこられるまでにベタベタと身体を触られたらしく、二度もデッドプールをけしかけられてたまるかと、彼にしては随分と素直に口を割った。
長々とした話をまとめれば、どこか別の時間軸の異なるロキの立てた計画が失敗し、その尻拭いをバッキーはさせられているらしい。
「時間軸は二次元的に語られることが多いが、本来は三次元、四次元にも伸びた枝だ。その枝の一本を三次元方向にズラすことで、時間軸の『予備』ができないかと考えたようだ」
しかし失敗した結果、異なるロキは虚無と呼ばれる空間からも消え去り、今サム達が存在するアースの過去が書き換わる可能性が出てきたという。
「書き換わった結果のひとつが『ウィンター・ソルジャー』の死だと?」
サムは己の言葉にゾッと肌を泡立たせた。
部屋に投げ込まれた血塗れのウィンター・ソルジャーの姿が脳裏をよぎる。
「そうさせない為の入れ替わりだ」
そもそもウィンター・ソルジャーが死ねば、今はない。とロキが尊大に告げたので、サムは顔を顰めずにはいられなかった。
──ウィンター・ソルジャーが死ねば今はない。
その通りだ。
そんなことは、サムが一番良く知っている。
ひとつため息を吐いたサムに、ロキは心配することはない。と告げた。
「書き換えは、本来存在すべき存在が消え、起こるべき出来事が起こらず、過去が不安定になるために起こる。ならばウィンター・ソルジャーの死を未来で食い止め、その間の過去はこちらの『バッキー・バーンズ』で埋め、同時進行でTVAがずらされた過去を別の枝として確立すれば入れ替わりも必要なくなる」
「バッキーにまたウィンター・ソルジャーとしての仕事をさせておいて、心配がないだと?」
眉間に皺を刻んだまま薄く笑ったサムに対し、ロキはこのアースの消滅ではなく個人の心配をしていたのか? とでも言いたげに鼻を鳴らした。
「人と会った後は機械の椅子の上で寝るだけの過去だというのに、心配症だな」
そんな訳があるか。とサムは思ったが、ウィンター・ソルジャーが目覚めた。という知らせがホアキンから入ったことで、反論の機会を失った。
そこから先は、知っての通りだ。目覚めたウィンター・ソルジャーはアヨの手によって洗脳をとかれ、バッキーのすべきだったことをする羽目になっている。ロキから未来の流れも変えない方が良い。と忠告を受けたからだ。
でなければこの休暇はバッキーが戻るまで延期していたはずだ。と思いながら、サムはひとつため息を吐いた。視線の先で、ウィンター・ソルジャーがウィルソン家の船に乗り込むのが見える。最近はAJとキャスによって内装の改修が行われており、そのお披露目を楽しみにしていたのはサムだけではない。
海に溶け込むような朝の空は突き抜けるような晴天で、波は穏やかだ。
バッキーが入れ替わっていなければ、計画通り良き休暇になっただろう。
この里帰りに入れ替わったバッキーを連れて行くと告げた時、事情を知る者は全員サムを止めた。イザイアでさえ、後でバッキーに恨まれるぞ。と忠告をした。
しかしサムは頑として自らの意見を譲らなかった。ロキの忠告に従わず、バッキーが戻れなくなれば本末転倒だ。
後日このアースに戻ってきたバッキーに恨まれるか、それとももう二度と彼に会えない可能性に怯えつつ家で彼の帰りを待つか。
どちらかを選べと言われれば、サムは迷いなく前者を選ぶ。
更に、サムの行動は全世界が注目している。下手に休暇を取り止めれば、何か問題が起こったのかと事情を知らぬ者達に勘繰られるだろう。特に嗅覚の鋭い猟犬のような記者達は、常にアベンジャーズの周りをうろついている。下手に騒ぎ立てられれば、余計な混乱を起こしかねない。
今もスマートフォンを構えたパパラッチの姿を見つけ、サムはそっと背後に忍び寄った。肩を叩けばギョッとした顔で振り向かれる。
「この辺は顔見知りばかりだ。警官もな。下手なことはするなよ」
他人の顔も撮るな。と肩を握った手に軽く力を入れ、パッと離せば転がるように逃げていく。その背が見えなくなるまで目で追って、ようやくサムはウィルソン家の船に乗り込んだ。
「おじさん、遅いよ」
サムを探しに来たのだろう、船を降りようとしていたAJに謝って、甥っ子に続いて船室の扉をくぐる。そして壁に貼られたものを見て、自然と頬を緩ませた。そこに貼ってあったのは、四季折々の家族写真だ。ヒーロースーツを着たサムとバッキーのポスターもある。
そしてそれらの写真のすぐそばで、居心地悪そうにしながらもサムのポスターから目を離せずにいるのはウィンター・ソルジャーだ。
銃火器を扱うために皮膚の分厚くなった指が、そっとポスターに伸ばされた。
その指が触れたのは盾だった。
サムは彼の隣に並んで言った。
「確かに、スティーブの写真とポスターも貼った方が良いな」
サムの言葉に、バッキーが弾かれたように顔を上げた。
「バッキーの写真があるなら当然だろう」
そう言ったサムは甥っ子達を捕まえて、心ゆくまで内装を褒め称えた後、二人に問いかけた。
「スティーブのポスターと、他にも写真を何枚か増やしても良いか?」
「良いに決まってるじゃん」
「じゃあポスターを買って、写真を現像しに行くか」
おまえも聞きたいことがありそうだからな。とウィンター・ソルジャーに小声で告げたサムは、スマートフォンを取り出した。その画面には屈託のない笑顔を浮かべたスティーブ・ロジャースと、サムがまだファルコンとして空を飛んでいた頃のアベンジャーズのメンバーが写っていた。
ウィンター・ソルジャーが口を開いたのは、二人の乗った車がしばらく走った後だった。
「ヒドラの洗脳を解かれ、盾を見せられても、あのポスターを見るまで今のキャプテン・アメリカがおまえだと、どこかで信じちゃいなかった」
「俺が超人じゃないから?」
わざとからかうように言えば、ウィンター・ソルジャーは眉根を寄せた。バックミラーに写った男の目付きの悪さに、サムは声を上げて笑ってみせる。
バッキー・バーンズがこうした顔をする理由に、相手への心配が含まれていると気付いたのは随分と前のことだ。
上機嫌を隠さぬサムに、ウィンター・ソルジャーはひとつ息を吐いて、そうだな。とサムの言葉を認めた。
「俺の知っているキャプテン・アメリカは、スティーブも、黒人の男も、どちらも超人だった」
「イザイアな」
サムは言った。
「こっちのバッキーには詳しく聞いてなかったが、洗脳中の記憶もそれなりにはっきり残ってるんだな。イザイアはまだピンピンしてるから、会いたいなら会いに行けばいい」
「向こうは会いたくないだろ。殺しそびれたヒドラの暗殺者が会いに来るなんて悪夢だ。話すこともない。あの男の動きや耐久性ははっきり覚えているが、覚えていなければヒドラに情報を持ち帰れないから覚えているだけだ。兵器も技術も、一日あればすっかり変わる」
「なるほど」
サムは赤信号にゆったりとブレーキを踏んで、後部座席に座った相手と目を合わせた。
「ちなみに、こっちのバッキーはイザイアに悪夢を見せたぞ」
「は?」
ウィンター・ソルジャーが疑問を呈する前に、サムは進行方向へ視線を戻し、赤信号は青に変わった。
目的地の大型量販店は、常のように賑わっていた。
サム・ウィルソンが、あるいはジョン・ウォーカーが盾を手にした後も、スティーブの人気は根強いままだ。ポスターはすぐに見つかり、写真も難なく現像が出来た。
「どれが良い?」
保存された写真から数枚を選ぶ際、サムは隣の男にも意見を求めた。
急がないから納得するまで選んで良い。というサムの言葉に逆わず、ウィンター・ソルジャーはスティーブの写真を全て開き、眺め、そして名残惜しそうにしながら一枚を選んだ。
それはスティーブが、彼の家族と共に笑っている写真だった。
帰りの車に乗り込む時、ウィンター・ソルジャーは無言だった。サムはあえて口を噤んだ。サムの管理するクラウドの中に、スティーブとバッキーが揃っている写真はごくわずかだ。ラフト収監中や逃亡中、あるいは塵になっていた五年の間に失われた写真も多い。その証拠にサムのクラウドの中の写真のほとんどが、ブルースやローディといった友人達や、ファン活動の一環でアベンジャーズの写真を集めていたホアキンから譲られたものだった。
ウィンター・ソルジャーが口を開いたのは、ウィルソン家が近くなってからだ。
「黒人のキャプテン・アメリカ、イザイアが生きていると言ったな。スティーブはどうした?」
「……月にいる」
サムは慎重に答えた。
「何かの任務か?」
「好きに受け取ってくれて良い。ひとつ言えるのは、俺にはスティーブとおまえを合わせられないということだ」
「そうか」
そうか。とウィンター・ソルジャーは繰り返した。彼の選んだ写真は、スティーブがタイムトラベルを行った後に撮られた写真だった。
ブルーグレーの瞳が窓の外を映す。真昼の空は晴れ渡っており、今夜は月がよく見えるだろう。