今はまだ

 ふっと身体が宙に浮き、ガープは咄嗟に受け身を取った。油断をしていた。と言ってしまえば簡単だが、位階は9を数え、戦闘能力に秀でたガープにこのようなことができる悪魔は限られる。
 そもそもここがどこかを考えれば、ガープの首根っこを掴んで宙に放り投げた悪魔が誰かは考えるまでもない。
「アガレスど、のっ!?」
 柔らかなシショーの上といえども、勢いよく落とされれば息が詰まる。流石のガープも文句のひとつでも言おうと上半身を起こしてみれば、目の前には綺麗に並んだ白い牙。
 噛まれる。と悟った時には遅かった。
「いっ…………!」
 鋭い牙が肉に食い込む。相手がアガレスであれば一瞬だけ躊躇いはしたものの、しかしガープに血でも滲めば後悔するのはアガレスだ。
 なるべく痛みなく確実に、相手の意識を奪う選択をする。悪魔学校を卒業してから、ガープは戦場に駆り出されることも増えていた。しかし本質は学生の時のまま。殺さずに済むならそれで良いと、相手の意識や武器を奪う方法ばかりが達者になった。
 小さく呪文を唱えれば、ふっと痛みが遠のいた。己の身体に体重を預けきった相手を見て息を吐く。
 相変わらず、アガレスの悪周期は油断ならない。
 アガレスをシショーに預け、ガープは僅かに乱れた着衣を整える。
 ガープが初めてアガレス・ピケロの悪周期に巻き込まれたのは、もう何年も前のことだ。
 初めて巻き込まれた時は驚いた。なにせアガレスの家に閉じ込められて、彼の家族が気が付くまで、ドアノブに触れることもできず、さらには首筋を強く噛まれもしたからだ。
 散々ガープを噛んだ後、満足したように眠るアガレスのそばから救出された後、なぜ。と混乱するガープに、アガレスの家族は告げた。
 噛まれたのは悪周期特有のアガレスの癖で、シショーもよく噛まれているから敵意からしたことではない。と。
 そしてアガレス家の悪周期は家系魔術と深く関わっており、自分が安眠できる場所を第一に整え、その中に籠ることを良しとする。と。
 それを聞いたガープが思い出したのは、収穫祭での役割分担だ。
 ガープのお節介で随分と計画が狂ったものの、当初はアガレスが拠点となる城を築き、その維持に努め、ガープは核となる彼と城を守り、時に獲物を求めて遠征すると決めていたのだ。
 そう思えば、巻き込まれたのは必然とも思われた。誇らしくもあった。
 ——己は彼に必要とされているのだと。
 ガープ・ゴエモンにとって、アガレス・ピケロは初めてできたお仲間だ。アブノーマルクラスで出会って以来、ずっと彼の隣にいることを許されており、同時にガープも彼の隣にいることを願っている。アガレスに言ったことはないが、今ではお仲間からのオトモダチ、ではなくてシンユウと言っても良いのではないかとも考えている。
 そして彼の悪周期は、それを言葉にしなくとも、確かめることができる数少ない機会だった。
 アガレスは不定期に訪れる悪周期にガープを巻き込むことをあまり良しとしない。もしもアガレスがガープを噛もうとしたら、何をしても止めてもいいし、出られなくなったら扉を刀で切るなり家系魔術で吹っ飛ばすなりしてもいい。と言われている。
 しかしガープはアガレスの悪周期に付き合うと決めている。バビルスで出会った頃と同じように、アガレスの世話を焼いて、彼の役に立ちたいと。
 アガレスから必要とされたいと、欲深く願っている。
 そして本当は、彼のシンユウでありたいと願う心とははまた別の欲も芽生え始めていることにガープ自身も気付いているが、今はまだ、この距離感を楽しみたいと考えながら、ガープはス魔ホを手にとって「しばらく仕事を休むでござる」と己の上司たる魔王様に電話をかけた。




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