好奇心は猫を殺す


 ——念の為に言っておくが、この猫は本物の猫じゃない。


 
 
 ウェイド・ウィストン・ウィルソンは、手放しに善人とは言い難い男である。それは彼と親しい人間なら誰もが認めるところである。
 しかしだからといって、ここ百年ほどの記憶が消し飛ぶに値する悪人ではない。
 おそらく。と、そのような意味のことを、やはり彼と親しい人間は付け加えるだろう。デッドプールというヒーローはそうしたものとして定義されている。。
 ——多分ね。
 ウェイドはポテトチップスをつまみながら、脳内で第四の壁の向こうに語りかけた。その目に写るのはTVAの無機質な病室だ。記憶が消えてから、週に一度は定期検診を受けることになっていた。TVAが過去の記録から再現し、さらに改良を加えた記憶復活装置(仮名)を安全に動かす為に必要な検査であるらしい。ついでにあれこれとデータを取られるのは分かっていたが、それに関しては手に入りづらい必要なものやそうでもないものを融通させることで合意した。
 ちなみにウェイドの記憶喪失がTVAの依頼をこなす過程で起きた出来事だったので、記憶復活装置(仮名)の製作はほとんどタダで準備させることが決まっている。黒帯のクレーマーと元ワーストウルヴァリンの脅しは伊達ではない。
 そこまで回想してウェイドは僅かに顔をしかめた。ウルヴァリン、あるいはローガンのことを考える度に、早く記憶を取り戻さねばと思ってしまう。
 なにせローガンが楽しそうだ。
 もちろんローガンはウェイドの記憶喪失を喜ぶようなミュータントではない。短気で怒りっぽいとはいえ、情が深くヒーローたるに相応しい性質を持っている。かつてワーストと呼ばれるきっかけとなった出来事でさえ、彼から永遠に奪われた者達への愛がなければ起こらなかった。
 しかし一方で、彼はもう二百年もウェイドと共にいた変人だ。
 少なくともウェイドの基準では疑いようがない。前述したようにウェイドは善人とは言い難く、デッドプールというヒーローも、彼をただのファンボーイと変えてしまうスパイダーマン達とは全く異なる存在だ。
 そんな相手と二百年も一緒にいるどころか法的に結婚している者を、変人と言わず何と言う。
 ウェイドは己の左手の薬指を見た。よく手入れされた指輪がはめられている。あまり高価なものではない。二人の戦闘スタイルを思えば失くすこともあるだろうと、最初から買い替えること前提で選んだのだと聞いていた。
 ——今時、結婚で得られるメリットなんて微々たるものなのに。
 百年もあれば価値観は変わる。現在の社会制度はウェイドの知るものと異なっていた。結婚以外にも性別属性人数関係性を問わず、他者と暮らす為の制度は複数あり、また生涯を一人で暮らす為の社会保証も整っていた。
 よく離婚しないでいられるね。と言ってしまったのは、何も自虐の為だけではない。
 その言葉に、ローガンは笑ってこう返しただけだったけれど。
「お前に何かあった時、一番に連絡がくるだろう」
 デートに連れて行かれ散々口説かれ頭のてっぺんから足の先まで食らい尽くされるより、よほどはっきりとした愛の告白だった。
 ウェイドが顔を赤くしたのは言うまでもない。
 ウルヴァリンが短気を起こして予想外の行動に出た時、デッドプールがフォローに回ることは珍しくない。その際驚きを露わにすることも珍しくなく、そしてウェイドも不意打ちに弱かった。
 ローガンが楽しそうなのはこのせいだ。
 約百年分の記憶を失ったせいで、ローガンが不意に恋仲の雰囲気を出すとウェイドは狼狽えてしまう。お互いの恋心に気付きながら、何年もティーンよりもなお不恰好でもどかしいやり取りをしていた時は、ローガンも似たようなものだったというのに。
 そう思えば早く記憶を取り戻したいという気持ちが大きくなる。やられっぱなしは性に合わない。そして出来れば記憶がない時にもローガンに一矢報いたい。しかしその方法が思いつかない。
 何かないかと己の知るローガンの記憶に首を回らしていると、不意に病室の外から声が聞こえてきた。
 耳を澄ませれば、普段は聞けないような単語が聞こえてくる。
 ウェイドはそっとデッドプールのマスクに手を伸ばし、病室のドアを開けた。
 わざと立てた音に顔を上げた二人のTVA職員が、デッドプールを見て表情を変える。
 その嫌そうな顔に笑いかけながら、デッドプールは言った。
「ハロー。面白そうな話が聞こえたけど、媚薬があるって本当?」





 どこからともなく感じる視線を無視しながら、ローガンはウェイドのいる病室に向かっていた。帰宅予定時刻になってもウェイドが家に帰って来なかったからだ。一時間程度で大袈裟な。とウェイドは呆れるだろうが、デッドプールは様々な恨みを買っており、TVAも手放しで信用できる組織ではない。この百年の間に進化した武器でもう一度同じ状況になられても困る。
 職員から教えられた道順を辿っていれば、ウェイドの声が聞こえてきた。その声がいかにも楽しそうなので、ローガンは歩調を早めた。調子に乗ったウェイドが何をしでかすか。二百年共にいても予想が付かないことが恐ろしい。
 そっと耳を澄ませれば、知った薬物の名前が聞こえて足を止めた。ここ三十年ほどの間に他のアースで見つかった興奮剤だ。混ぜ物の多い粗悪品でも強い効果を得られるが、酷い副作用と依存性を伴う。ご多分に漏れず弱者を食い物とし軍事利用されていたそれが、アースを越えて広まりつつあったので、大元を叩くために駆り出されたのがウルヴァリンとデッドプールだった。
 そういえば混ぜ物次第で媚薬の効果もあったか。と思い出しながら、ローガンは再び歩を進めた。
 気配を消し、デッドプールのマスクを被ったウェイドの背後に立つ。
 うんざりとした表情を隠しもしないTVA職員達の目が見開かれるのと、ローガンがウェイドの肩に顎を置いたのは同時だった。
「また懐かしいものを見つけてきたな」
 手を伸ばしてTVA職員の持っていた薬を奪えば、あからさまにウェイドの肩が跳ねた。振り向いたマスク越しにも「何故」という問いが聞こえてきたので、苦笑と共に肩をすくめてやる。百年は長い。技術もすっかりと変わっている。
 舌打ちを隠さないウェイドに笑って、肩を寄せ合うTVA職員達に喋りかけた。
「貰っても構わないか?」
 TVA職員が息を飲んだ。
 ウェイドの記憶を取り戻すついでに、TVAが様々なデータを収集をしたがるのは分かっていた。己とウェイドはひとつのアースのアンカーであり、TVA曰くの外れ値だ。アダマンチウムの記憶喪失でさえ、今まで『ウルヴァリン』でしか確認されておらず、今回のウェイドがウルヴァリン以外の初めての事例であるという。しかし相手はデッドプールだ。勝手にデータを取れば何が起こるかわからない。故に交渉は早い段階でなされ、データの対価に手に入り辛いものを融通すると決まっていた。
 とはいえ直近で欲しい物は思いつかず、後々申請すれば良いとなっていたが。
 そこにこの薬が転がり込んできた。
 ローガンはTVA職員に言った。
「三十年前に流通した物か、新しくどこかのアースで作られたものかは知らないが、一、二袋無くなって困る物じゃないだろう。使い道を心配しているなら安心しろ。飲むのは俺とこいつだ」
「はぁ!?」
 驚くウェイドを無視し、ローガンはもう一度TVA職員に問いかけた。
「貰っていくが、良いな?」
 その問いに、引き攣った笑みを見せながらTVA職員は頷いた。交渉は終わりだと言わんばかりに背を向けて、そそくさと二人から離れて行く。すでにデータに対する対価として、薬の代金が引かれているだろう。ここはそういう場所だ。
 じっとりとした視線を感じて振り向けば、ウェイドがマスク越しにローガンを見つめていた。
 なんだ。と聞けば、正気? と返ってくる。
「本当に飲むつもり?」
 そうでなければウェイドのデータの対価として、こんな薬を求める訳がない。
「欲しかったんだろう?」
 問いに問いで返せば、ウェイドはぐっと息を飲む。嘘を吐いても仕方ないと分かっているが、言い訳はしたいという顔だ。
 その顔を見ながら、ローガンは更に言い募った。
「気にならないのか?」
 ヒーリングファクターのおかげで効果は一時間もせずに消えてしまうものの、一袋程度なら副作用も依存性もさして気にならず、興奮剤して使用できるというのに。
 それを聞いて、ウェイドは眉根を寄せた。
「なんでそんなこと知ってるの」
「さあな」
 とぼけてみせるが、ウェイドが答えにたどり着いているのは分かっていた。
 ウェイドが渋い顔をする。
 ウェイドとしてはローガンにこっそりと飲ませるつもりだったのだろう。元々主導権を握りたがる男である。記憶を失ってから、百年分のアドバンテージを得たローガンに悶々としているのは気付いていた。
 とはいえそろそろ何かしでかすだろうと予想していたものの、まさか三十年前と同じことをしようとするとは思わなかったが。
 ローガンは一歩、ウェイドに歩み寄るとその手に薬を握らせた。
「まあ、お前が使いたくないなら良い」
 それより、検査が終わったなら帰るぞ。と背を向ければ、慌てたようなウェイドの声に呼び止められた。
「ローガン!」
 振り向けば、ウェイドは天を仰ぎ、地を見て、そしてモゴモゴと何かを口の中で呟いた後、デッドプールのマスクを脱ぎながら「あのさ」と言った。
 ウェイドは主導権を握りたがるが、それ以上に好奇心が強く、懐に入れた相手には許可を求めたがる男だと、ローガンはもうとっくの昔に知っていた。
「今夜、セックスしたいんだけど、いい?」