日常



「おかえり。ローガン」


 咽せ返るような血の匂い。薬物を摂取した者に特有の不快な体臭。
 それらの発生源であるローガンは、己の身体をアダマンチウムの爪で突き刺した。天然の檻に地の底から響くような唸り声が反射する。TVAのタイムパッドによって見つけた山奥の洞窟に、ローガンの他に人気はない。それどころか酷い血臭にも関わらず、野犬どころか虫の一匹すら近寄らない。氷点下ではローガンから溢れ出した湯気の立つ流血すら、すぐに凍ってしまうからだ。
 ローガンはまつ毛に降りた霜を落とすが如く瞬きをした。このままでは己の鼻も両手足の指も、それどころか全身壊死してしまうだろう。そうと分かっていながら動かなかった。ローガンのヒーリングファクターは二百年以上前からまるで衰えておらず、薬が抜けさえすれば『己の』アースに帰って暖かな部屋で壊死が治るのを待てば良い。そう思っていたからだ。
 どうせなら意識も手放してしまいたい。しかし過去、己がしたことを思えば万が一を考えて出来なかった。このアースはローガンが偶然辿り着いただけの場所だ。
 壊したいものはない。
 ややもすれば上がりそうになる息を整えて、ローガンは冷たい空気を肺に入れた。いっそ全身凍ってしまえば動けなくなるだろうか。そんなことを考えた時、ふと空気が揺らいだ。
 鼻を掠めた匂いに、まさか。と目を見張った。けれどタイムパッドよる光の扉が現れた瞬間、ローガンはその先にいる存在を確信した。
「……ウェイド」
 ローガンが呟いた己の名前に被せるように、ウェイドの軽口が始まった。
「ヤッホークズリちゃん。一日ぶり。元気してた? してないね。TVAのタイムパッド盗んで他のアースに逃げた。って聞いた時はびっくりしたけど、この状況見たら納得。すごいにおい。アルがいたらこれだけで天国にイっちゃいそう」
 ホルスターから銃を抜く音がする。ウェイドは軽口を止めずにローガンに近付いた。サクサクと凍った地面を踏み締める足音がする。
「というかその状態でよく俺ちゃんに気付けたね。匂い? 音? それとも愛かな。全部かも」
 ローガンの顎に硬い銃身が触れ、そのまま顔を掬い上げられる。
「目、ほとんど見えてないでしょ。一回凍って再生中? それとも失血で神経回路が働いてない? まあどっちにしろ怒るけど」
「怒るのか」
「怒るでしょ。あんただって俺が同じ状態になったら怒るだろ?」
 怒るに決まっている。ウェイドだけではない。アルが、あるいはローラが、メリーが、理不尽に体に害を与える薬を摂取する事態になったらローガンは怒る。
 そう考えて、ローガンは顔を動かした。この短時間に髭が凍って銃に貼り付いたのかぶちぶちと音がしたが、そんなことはどうでも良かった。表皮の感覚が消えて久しい鼻をひくつかせる。
「……血の匂いがするな」
 氷が張り、鈍った鼻では気が付かなかった。己のものでもウェイドのものでもない、複数人の血の匂いがする。錆臭さが薄いことを考えれば、血が付いてさほど時間が経っていないことは明白だ。
 今回のTVAからの依頼はローガンにのみ押し付けられたもので、一昨日まで同じくTVAの依頼で別のアースを走り回っていたウェイドは、ローラと休日を楽しんでいたはずだ。
 眉を寄せたローガンの言葉に、ウェイドが笑った気配がする。同時に銃が顎の下から引き抜かれ、ローガンの頭が重力に従って地面に落ちた。
「あんた探すために何人かね。ま、俺ちゃん交渉も黒帯のクレーマーだから、どっかのクズリちゃんと違ってタイムパッドはちゃんと『お話し合い』の上で借りてきたけど」
 定期的にTVAの依頼を受けているとはいえ、ウェイドもローガンも専用のタイムパッドを支給されていなかった。正式な職員でないのもあるが、ウェイドはTVA職員を複数殉職させた上、他のアースを飛び回り、ローガンを連れてきた前科がある。
 今、ウェイドがいじっているタイムパッドを奪うために、一体何をしたのか。それを想像し、ローガンは眩しいものでも見るように目を眇めた。
 ウェイドは大事なものを守るためには手段を選ばない。
 手遅れになる前に、何を犠牲にしようと誰を殺そうと、生かしたい者を生かそうとする。
 だからこそ、ローガンはウェイドの手を取った。
「ローたん」
 血の足りないローガンがぼんやりとしていれば、ウェイドがローガンに声をかけた。同時に奇妙な浮遊感がローガンを襲う。
「受身取れなくても、治るから良いか」
 己の体の下、地面のあった場所が、タイムパッドによって他の場所と繋げられたのだと気付いたのは、一メートルほど自由落下し、硬い地面に叩きつけられた後だった。
「ぅ、ぐ……!」
「おー。まあまあ条件通りの部屋だ」
 氷点下から、おそらく常温に整えられた室温の差に眩暈がする。血管が膨張して何本か切れたかもしれない。二、三度咳き込んで肺の中の空気を入れ替えたローガンは、怒りを隠さずに口を開いた。
「ウェイド。どこに連れてきた」
「極寒よりはマシな場所」
 言われずともわかる答えを告げた後、ウェイドは面白くもなさそうに「どっかのアースのTVAの研究所」と言った。
「あんたが望めばいつでも鍵を開ける準備ができてる扉に、個室のトイレ。長期保存が出来る食料飲料各種と、アダマンチウムほどじゃないけど丈夫な金属で上下四方を囲まれた部屋」
 寒さへの対策をしなくとも良くなったからか、急速にローガンの視界が拓けていく。
「ドローン型の小型カメラ、は必要ないか」
 四発の銃声が響いた後、部屋の四隅から機械の壊れる音がした。
 欠けても霞んでもいない視界に映ったウェイドは、ホルスターこそしていたものの常のパーカー姿であり、ローガンと目が合うと己を指差して笑ってみせた。
「あとは俺」
 ウェイドがしゃがんで大きな体躯を屈め、横たわったままのローガンを覗き込んで言った。
「依頼自体は成功してるし、あんたがそうなった原因は向こうの職員のミス。だから今のあんたに必要そうなもの全部この部屋に集めてもらったけど、他にいるものは?」
 ウェイドの指先が、ローガンの頬に触れた。それだけでゾッと肌が泡立ち体温を上げる単純さに、ローガンは唸り声を上げた。
「……必要ない」
「これで十分?」
「違う。ウェイド。必要ないのは全てだ」
 ウェイドの手を拒絶するように首を振る。あれだけの血を流しヒーリングファクターが働いていながら、氷点下の山奥でも燻っていた火が息を吹き返す。
 薬物によって付けられた火だ。
 あるアースに住むミュータントの血から作られるそれは、他者の脳内ホルモンに作用する。濃度と混ぜ物によって変化はあるものの、根本的な効果は変わらない。戦場の兵士に飲ませれば恐怖を麻痺させ眠りを忘れ、興奮のまま敵を討ち取るようになり、欲に溺れたものは己で、あるいは他者に飲ませて精力剤として使用する。
 その薬の原液が入った貯水槽にローガンが落ちたのは、先ほどウェイドが言ったようにTVA職員のミスだった。間抜けなミスだ。まさかタイムパッドで繋げた先が貯水槽だとは。
 依頼内容が『原料』であるミュータントの保護への協力であったため、ローガンは貯水槽を壊して暴れ回り、薬物精製所職員の目を引き付けた。その間に目的のミュータントはTVAに保護され依頼は成功したものの、皮膚から吸収し、また突然のことに飲み込んでしまった薬の効果はヒーリングファクターをもってしても消すことができなかった。遅効性の薬であったのも良くなかった。
 そもそも致死量を超えて摂取したのだ。意識を失わないだけ幸運だったとも言える。
 意識を失っていたらどうなっていたか分からない。
 ローガンは。
 ——己の中にある暴力性を知っている。
 世界を失望させた『ワースト』ウルヴァリン。何もかもを壊した存在。
 同時に彼は、何もかもを守れなかった存在でもあった。
 恩人も、友人も、ローガンを慕って後を付いて回った子ども達も。
 彼らの全てが消されてしまった。命だけではない。肉体だけではない。恵まれし子らの学園に刻まれた彼らの生きた記録、痕跡、作り出し世に広まったもの。日記一冊、写真一枚、全てが燃やされ上書きされた。
 もしアダマンチウムの骨に彼らの名前を刻んで残せるなら、ローガンは喜んで己の骨を抜き取っただろう。けれどアダマンチウムは絶対的なものではなく、そして彼らとの繋がりを得るきっかけのひとつであったものを、ローガンが手放すことなど出来なかった。
 泣き喚こうと世界を失望させようと、全ては遅すぎた。
 遅すぎたのだ。
 そしてそれを繰り返すつもりはない。
「ウェイド」
 ローガンはウェイドの名を呼んだ。
「俺は」
 ウェイドの瞳に映っているものを見た。
「俺は、お前を傷付けたくはない」
 いない神に祈るような声だった。
 その言葉に、ウェイドは顔に笑みを乗せたまま口を開いた。
「俺ちゃんはいらない?」
 ローガンは首を横に振る。ウェイドは続けて言った。
「死なないのに」
「……だからこそだ。いつもの喧嘩ならともかく、こんな薬に、お前を利用されたくない」
 ローガンは熱を逃すようにひとつ大きく息を吐いた。
「お前も同じ状況になったら、俺を拒絶するだろう?」
「するね」
 今度こそ、ウェイドは笑い声を上げた。そして腹を抱えて笑った後、ふと「でも、あんたが俺に殺意むけてくれんのも悪くないと思ったんだけどな」と言った。
 ウェイドにひどく自虐的な部分があり、そしてそれ故に己を顧みない部分があることをローガンは知っている。己のようだと思ったこともある。だからこそウェイドはここにいるのだろうし、ローガンは呆れながらウェイドに告げた。
「殺意くらい、痴話喧嘩でいつでも向けてやる」
 ローガンがウェイドを番と定めて半年以上が経つ。その間に何度愛を告げ、何度愛を告げられ、そして何度どうでも良い喧嘩から、殺意を向け合ったか分からない。同時にアルに家から叩き出された回数も覚えていない。
 靄がかかりそうになる思考に舌打ちをこぼし、ローガンは言った。
「今日は大人しく帰れ。夕飯当番を守れないことは謝る」
「ピザ代あんたに付けとくから気にしなくて良いよ。ローラのアイスとメリーたんのおやつとアルの塩気が強いつまみ代もね。それとタイムパッドは回収するからな。いくらあんたがクズリだって言ってもあんな場所で凍ってるのは見たくない。どっかの金持ちがショーケースに飾って客に見せびらかして悦に入りそうな出来だったけど、俺ちゃんふかふかであったかなあんたが良い。いくら死なないからって、あんたがあんな風に扱われて良い訳ないんだから」
 ウェイドが立ち上がると睨み付けたローガンに舌を出し、その代わり。と言った。
「そろそろTVAに頼んだのが……って、今かよ。タイミングが良すぎる。カメラ壊したけどどっかで見てんの? プライバシーの侵害で訴えるぞ悪趣味組織!」
 お前に言われたくはないだろう。とローガンは思ったが、タイムパッドが光り小さな箱が現れたので、告げる機会を失った。
「なんだそれは」
「解毒ざっ、いってえ! 爪! 反応が良すぎる! 今TVAから届いたばっかりで俺ちゃん悪くないのに!」
「早くよこせ!」
 ローガンが爪で足を刺したためウェイドの手から転げ落ちた箱を、ローガンが手を伸ばし空中でキャッチする。箱を開ければ液体の入った注射器が現れた。ローガンはその針を躊躇わず己の腕に突き刺した。
「わお。アルもびっくりの早技」
 ウェイドの軽口には答えずに、ローガンは液体全てを己の身体に注入した。薬の中身を疑ってはいなかった。流石のTVAも己のミスで害を受けたローガンに、下手なものは渡さないだろう。注射を終えたローガンはホッと息を吐き、床に寝転がる寝転がる。それを確認した後、ウェイドはタイムパッドを操作した。
「じゃあ俺ちゃんもう行くね。扉を三回ノックすれば出してくれるから、寄り道せずにちゃんと帰ること!」
「ああ。……ウェイド」
「何?」
 光の扉を背にしたウェイドを見つめ、ローガンはひとつため息を吐いた。
「お前も、遅くならないうちに帰れ」
 ウェイドはわずかに目を見張った後、ローガンに手を振った。
「アルとローラが寝る前には帰るって。眠ってるとこ起こしちゃ可哀想だから」
 じゃ、お家で。そう言って背を向けたウェイドを見送り、光が消えたのを見届けた後、ローガンはホッと息を吐いた。気を抜いた瞬間に、腹の底で燻る熱に目の前が真っ赤になる。ギリギリと嫌な音がすると思えば己の爪が床を引っ掻く音だった。ウェイドに見せたくないという矜持だけで保っていた糸が切れそうになるが、ローガンは悪態を吐いて意識を保った。
 ここにローガンが壊したいものはなく、いくら己がワーストであるとはいえ、理由もなく破壊を行うような存在に成り果てる気はなかった。
 己の代わりにウェイドが怒っているだろう今は尚更だ。
 ローガンは先程のウェイドの姿を思い出す。それだけでこんな状況にも関わらず、口の端が緩む。着の身着のまま、おそらくはすぐに手に取ることの出来たホルスターと銃だけを手にし、他人の血の臭いをさせてローガンの前に現れた己の男。
 怒る。とウェイドは言った。当たり前だ。ローガンとて、ウェイドが、アルが、ローラが、メリーが、理不尽な目に遭ったら怒る。怒ってその原因を叩き潰す。そうした点では、ウェイドはローガンと似ていた。だからこそローガンはウェイドを止めなかった。TVAではすでに暴れてきたようだから、今はローガンが潰し切れなかった薬物精製所で好き勝手しているだろう。
 その姿が見られないことだけが残念だ。
 そう思って、違う。とローガンは首を振る。
 本来なら、今頃家に帰ることが出来ていた。少し遅くなったかもしれないが、玄関まで走ってきたメリーを抱き上げ、アルに不在を詫びて、ローラに遅くなったことを叱られ、そして今、己の代わりに怒っている男にただいまを言っていた。
 ウェイドはおそらくローガンの「ただいま」に笑って「おかえり」を返しただろう。
 そう思えばやはり己の今の状況が忌々しく、ローガンはひとつ唸りを上げて爪で一度床を切り裂いた後、ウェイドが薬物精製所を徹底的に壊し尽くしてくれることを祈った。
 そして実際のところ、ローガンの薬が抜けるまでにウェイドがしたことといえば、精製所で売買ルートを掴み、それを潰すついでにTVAから慰謝料を盛大にぶんどる計画を立てることだったのだが、あいにくと、ローガンがそれを知るのは約十二時間後のことだった。