溶鉱炉から愛を込めて
ウェイド・ウィンストン・ウィルソンは、二〇八本の骨を持っている。世界の危機とヒーリングファクターによって頻繁に数を変える彼の骨は、ここ数日、その本数で落ち着いていた。二〇八本のうち二〇六本は彼のもので、ゴシップガールを観るともう一本増える。そして最後の一本は、ウェイドの中指の先端に癒着していた。
左手の中指だ。
罵倒と共に天に突き立てる指であり、手を伸ばした時、最も遠くまで届く指でもある。その指に癒着した骨は、誰のものでもなかった。少なくとも、今は。元の持ち主は死んでいるし、ウェイドは他人の骨なんて欲しくない。それなのに彼が第二の中指の先端の骨を持っているのは、あるアースの消滅の危機に関係があるからだ。
仰向きのまま、黴臭いベッドの上であくびを溢したウェイドは、ぐるりと部屋の中を見渡した。窓からは朝日が差し込んでいる。そして枕元に置かれたデッドプールのマスクを被った彼は、誰もいない部屋の天井に目を向けると、視線を一点で止めた。
「あー。ダメダメ。それ以上引いたら見えちゃう。何がって? 分かるだろ」
彼は第四の壁の向こうへ告げた。画面にはウェイドの腰から上と、グローブを付けた左手が映っていることだろう。裸の身体とグローブを付けた左手だ。黒いグローブの生地は左手首から下が溶け落ちていて、その他はマスク以外何もない。
ウェイドは起き上がると、ため息をついた。
「オーケー。分かってるよ。俺だって別に裸を見せつけたい訳じゃない。下手すりゃレーディングを上げなきゃならないし、セックスする相手にだって、急に見せたら心を傷つけることがある。でも気の効かない俺の相棒とTVAは、この身体が治っていくことに注目しすぎて、俺が変質者になる可能性を全く考えちゃいなかった。馬鹿だろう? よって、俺ちゃんは悪くない」
そう言って、ウェイドはグローブを勢い良く引き抜いた。抜け殻になったグローブは、一瞥もされずに床に捨てられる。出てきたのは全身と同じく瘡瘍のある左手と、中指に癒着した小さな骨。朝日を浴びて鈍く光る骨は、明らかにリン酸カルシウムとタンパク質を主体として出来たものではない。金属でできた骨だ。
アダマンチウムでできた骨だ。
「マーベルにどれだけアダマンチウムの骨格を持つやつがいるか知ってる? ウルヴァリンにその変異体。あとは映画にも出てきたセイバートゥース。骨だけならそいつらから磁石で引っこ抜かなくても、小道具さんに頼めば作ってくれる。脅しても良い。でもこれは正真正銘ウルヴァリンの骨だ。それも、このアースのウルヴァリン」
ウェイドは躊躇いもなく癒着した骨を自分の指から引き剥がした。血が飛んで、小さな悲鳴がウェイドから上がる。思ったより痛かった。と舌打ちを溢した彼は、血や皮膚や肉がこびりついた骨の表面を指で拭うと、朝日に掲げた。
「見える?」
そこには名前が刻んであった。ヒュー・ジャックマンでもライアン・レイノルズでもない。
ウルヴァリンの本名が。
「いくらウルヴァリンでも骨の一本一本にまで自分の名前を刻んでるわけがないって? そりゃそうだ。これは俺ちゃんが刻んだんだから。何故かを説明するには少しだけ時間を貰わなきゃならない。俺ちゃんが別のアースのアンカーになって、最終的に左手首を残して全裸になった話だ。早く聞きたいとは思うけど、まあ待て。物事には準備がいる」
ウェイドは部屋の扉に目をやった。足音が聞こえていた。重いそれは部屋の前でぴたりと止まり、扉が開かれた。
「ウェイド。着替えと食事を持ってきたぞ」
現れたのはローガンだ。ぱんぱんに中身の詰まった紙袋を抱えている。
その姿を見て、ウェイドは第四の壁の向こうへ手を振った。
「着替えと食事の後に、また」
✴︎
ウェイドがその依頼を受けたのは、なんでもない日のことだった。天気は良く、部屋の掃除はしたばかりで、洗濯物も溜まっていない。朝食は散歩ついでに済ませており、シンクにあるのはマグカップのみ。どこかへ行く予定もなく、誰かに会う約束もない。そんなまるで見計らったようなタイミングで、TVAから依頼が来た。あるいは実際に監視して、タイミングを見計らっていたのかもしれない。TVAがどこまで何を観測しているのか、ウェイドが知る由もないが、碌でもない組織である。目的を達成するために、そのくらいのことはするだろう。
しかしTVAと、自ら契約しているのはウェイドだ。
「アンカーを失ったアースで、ミュータント達の記録の入ったデータチップを手に入れて来て欲しい」
そう言われた時、真っ先に湧いたのは興味だった。かつて『ローガン』を失ったこのアースのように、滅びへ向かうアースが存在する。それもTVAの予測では、数年後に消え失せるとのことだった。アンカーが死亡して三百年ほどが経っており、新たなアンカーが現れる気配がない。と。
TVAが先のないアースを気にかけるのも珍しい。ウェイドがそう告げれば、「事情があり定期観測を続けていたが、いよいよ綻びが目に見えてきた。消滅の前に、せめて価値ある情報と資源を回収することが決まったのだ」と返ってくる。
「その事情って?」
「セキュリティクリアランスレベルが未達。教えられることはない」
その答えに、ウェイドは大袈裟に天を仰いだ。
「守秘義務ってわけ? そんなことで俺が依頼を受けると思う? 観客が見たいのはヒーリングファクターを持つ俺のピンチだ。予測が適切でなかった。とかいって、コーラとポップコーンを楽しみながら、大画面で世界と俺ちゃんの消滅を眺めようって魂胆じゃないの?」
「そう思うのならこの依頼は引き受けずとも良い。ただ、これだけは教えておく」
「何を?」
「目的のデータチップの製作者について」
ウェイドはデッドプールのマスクの下で、片眉を上げる仕草をした。嫌な予感がしたからだ。
「データチップの製作者は」
TVAの制服を纏った「それ」は、嫌味ったらしい程一文字一文字を噛み締めるように、その名前を告げた。
「プロフェッサーX」
あるいは、チャールズ・エグゼビア教授。
今は亡き彼が、テレパス能力により集めた記録。
『デッドプール』は引き攣った笑いを溢した。
「チャールズがあんたらの為に情報を残したとは思えないんだけど」
彼の言葉は、しかし相手を素通りする。
「持ち主が不在ならば、TVAにも所有権はある。誰の手に渡るか、かのエグゼビア教授にも予想はできなかったはずだ。当時の状況は彼らにとってあまりにも不利であり、希望的観測は可能な限り省かれた。最も高かったのは、誰の手にも渡らず失われること。あるいは壊されること。彼が死亡した当時のミュータント、あるいはミューテイト達の技術の粋を集めたとはいえ、永遠に壊れないデータチップはありえない」
「それ、俺ちゃんに言う?」
デッドプールは笑みを浮かべて首を傾げたが。相手は構わず話し続けた。
「なんにせよ、我々は彼の残した情報を確保し、然るべき手段で保存すべきと結論付けた。TVAはあなたにその任務を依頼したい」
「あーもう。ほんっと人の話を聞かない組織だな。いーよ。受ける。ただ俺がそれを持ち逃げしたり、壊したりしても文句は言わないこと。これが条件。いい?」
「構わない。現在、我々がこの仕事を依頼できる存在は二名しかおらず、もう一名は不適切だ。あなたであっても成功確率は低い」
「ああそう。で、データチップのある場所は? いつから行けば良い?」
「あなたの準備ができているならいつでも。場所は恵まれし子らの学園」
「まーたあそこか。他に選択肢ないの? 予算の関係? なら仕方ないか。成功報酬は?」
「こちらを」
差し出されたモニターをウェイドは見た。
「前金は半額。口座は登録されたものを使用。他に質問は?」
「そうだな。特にないけど、あんたの型番は?」
「アールツーディーツー」
一瞬、沈黙が両者の間を支配した。
「おっと、縦書きのせいで反応が遅れた。そんなことあるはずないだろ!」
ウェイドはホルスターから引き抜いたイーグルで、目の前のロボットの頭を殴り付けた。コードがぶちぶちと切れて、まるでボールのように機械の首が飛んでいく。
「あー! くそっ! ふざけやがって! 似ても似つかないロボットに同じ型番付けてんじゃねえ! 最初にたくさん殺したからって連絡にも適当な機械使いやがって! 年々精巧になってくのが腹立つ! こういう説明にはちゃんと来い責任者!」
腹いせに三発銃弾を撃ち込んで、ウェイドはひとつ息を吐いた。
「まあ良いや、さっさと終わらせてクソして寝よ」
そうひとりごち、ウェイドはタイムパッドを操作すると、光る扉の中へと入っていった。
光る扉を抜けると、そこは工事現場であった。
「は?」
思いもがけない光景に、ウェイドの口から間抜けな声が出た。見慣れた、そして記憶よりずっと古ぼけて廃れた『恵まれし子らの学園』が、今まさに重機で破壊されていたからだ。
思わず息が止まる。心臓が跳ねる。次の瞬間には、電気信号が脳を介さず身体を動かしていた。
「ひっ!」
油圧ショベルのアームがアダマンチウムの刀によって切り離される。支えを失ったアームが重力に従って地面に落ち、しかし重機のオペレーターが悲鳴を上げたのは、今まさにアームが自分の方へと倒れてくるからではない。
『デッドプール』の視線に射抜かれたからだ。
「ミュータントだ!」
誰かが叫んだ。同時にアームが操縦室へぶつかり金属が潰れる鈍い音がする。オペレーターの千切れた腕が、ポンと宙へ飛んでいった。
その光景を横目に、デッドプールは首を回しながら重機達の前に進み出た。
「あーなるほど。チャックが死んだからここがお払い箱になったってわけか。でもX-MENの希望で取り壊されるわけじゃなさそうだしミュータントすら関わってなさそう。おい! そこのスーツ着たオールバック!」
デッドプールは自分を遠巻きに眺める者達に目を走らせると、その中から一人を指差した。
「そうあんた! あんたこの件の監督者だろ? いかにも権力に媚びへつらって自分の昇進しか考えてなさそうなツラしてる。誰の依頼でこんなことしてんの? 天国のチャールズの許可は取れてる? もしくは他のX-MEN」
「X-MEN、だと?」
人々の呆気に取られたような表情が、X-MENの名前で一変する。漣のようにざわめきが広がって、感情が伝播し変化した。
恐怖、絶望。そして憤怒へと。
叫びが上がった。
「馬鹿を言うな! 私達がどれだけあいつらに苦労させられたと思ってる! X-MEN? ミュータントの権利の保護と人類との共存などという馬鹿げた思想に取り憑かれ、出来もしない理想を掲げた奴らだ! 何も残せないどころか世界を荒らすだけ荒らしてこの世を去った! 学園の取り壊しは国の決定だ! あいつらは今頃天国どころか地獄で業火に焼かれてるだろうよ!」
「わーお。馬鹿げたって言った? わかった。あんたは死んで良い」
デッドプールのイーグルが、相手の眉間を撃ち抜いた。血と脳髄が飛び散って、そこかしこから悲鳴が上がる。
「まあ物語には悪役が必要だよね。ほんとは俺ちゃんこういうの向いてないんだけど。もっと派手で奇抜でパッと殺して配給はA24を希望。でも二十世紀フォックスを買収したのはそこじゃない。ディズニーは失敗だった。この手の話なら俺の活躍はナレーションで終わらせて、あとはウルヴァリンの感動物語でもやっとけっての。ったく」
「ウルヴァリン?」
「ん?」
自分達が殺される可能性にようやく思い至ったのか、学園にいた者達が逃げ惑う。そんな中、デッドプールの独り言を聞き咎めた者がいた。デッドプールは声のした方へ目を向けた。そこには唇から過呼吸も間近という荒れた息を漏らし、立ちすくむ者がいる。
「おいおいどうした? 気絶でもする?」
一歩、デッドプールが大股で近付く毎に、ウルヴァリンの名を聞き咎めた者の足が後退する。しかし歩幅の違いによって、すぐに息さえ触れる距離まで近づいた。
「い、」
「人を指差すなって。銃を突きつけられたいのか?」
デッドプールは銃口を相手の額に押し付けた。その瞬間、もう耐えられないとでも言うように、相手の悲鳴が上がった。
「い、いま! 今、こいつ、ウルヴァリンって言ったぞ!」
「は?」
「なんだって!?」
「あ?」
叫び声に反応し、動揺が感染する。先程X-MENの名前を出した時の比ではない。悪魔か地獄を目にしたような騒ぎとなった。デッドプールは頭にクエスチョンマークを浮かべながら引き金を引いた。逃げ出した相手の心臓から血が吹き出す。
誰かが言った。
「なあ! 赤いマスクのミュータント! あいつ、もしかしてウルヴァリンが消えた時の!」
「あの時の!? やっぱりこの学園に手を出すべきじゃなかったんだ!」
あちこちで介される会話もどきを聞きながら、デッドプールは手際良く人を殺していく。
「なあ! あの時ってどの時? 俺ちゃんさっきこのアースに来たばっかりだから過去のこと話されてもわかんにゃい」
「ひい!」
最後の一人の逃走経路を予測して先回りすれば、デッドプールの身体にぶつかった相手が吹っ飛んだ。そして運悪く壊されたコンクリートの破片に頭をぶつけ、赤い血を飛び散らせる。
「あ」
一、二度大きく痙攣した相手が動かなくなる。
デッドプールが足先で突いてもピクリともしない。
「なんてこった」
マスクを取って、呆然としながらウェイドは言った。
「殺しちまった」
今更なことだった。