No.1444

イザカク書いた〜。
#イザカク



 拳だろうが鉄パイプだろうがコンクリートブロックだろうが、殴った傷から血が噴き出ることは滅多にない。故に鶴蝶の身体から溢れたそれを、イザナが血と認識するのにわずかな時間が必要だった。東京卍會が解散し、抗争から離れて数ヶ月も経つなら尚更だ。
「……は?」
 イザナを突き飛ばした鶴蝶の身体が人形のように倒れていく。普段ならば無意識で行う受け身すら取ろうとしない。頭が、そして次に胴体が、地面に打ち付けられて小さく跳ねた。
「カクちゃん!」
 武道の声がどこか遠い。尻もちをついたイザナのジーパンに、鶴蝶の手が引っかかっていた。蘭のお下がりのコートの袖口に、小さな白い粒が降ってくる。
 それを見て。
 ああ、今夜は雪だったかと、イザナは場違いにも、そんなことを考えた。



 人をよく見ている。と、鶴蝶をそう評したのは大寿であった。何気ない言葉だった。ふいに口をついて出た、しかしだからこそ、本心だと分かる言葉でもあった。
 それは不定期に開催される元東京卍會幹部の勉強会で告げられた。元々は赤点ギリギリの武道が鉄太に泣きついて始まった勉強会だ。最初は元溝中のメンツしかいなかったが、いつの間にか武道と仲のいい千冬や八戒達が合流し、千冬が場地を連れてきて、東京卍會に黒龍と天竺が吸収されてからは鶴蝶も加わった。その頃には勉強会の場所も言い出しっぺの武道の家から八戒と柚葉が暮らすマンションのリビングに移り、勉強会と言いつつ全然進んでないみたい。という柚葉のぼやきと、一人ではバカどもの弱点をカバーをしきれない。と鉄太が頭を抱え始めた為に年長者の助け舟が出た。
 その舟の船頭が大寿だった。
 八戒との関係を思えば最初こそ渋るそぶりを見せた大寿だが、鉄太に相談された九井が早々に白旗を上げたこと、元黒龍八代目総長のイザナが、出来ないのかよ十代目。と煽ったこと、そして三ツ谷が間に入り八戒と柚葉の許可を得たことで実現した。
 なんだかんだで面倒見が良く、仕事はきっちりとこなす大寿である。東京卍會が解散してからも勉強会は続いており、その勉強会に他の幹部たちがやってくることも多かった。一番は柴兄弟と仲の良い三ツ谷であり、講師役を務める九井や鉄太にくっついて、乾や半間も度々顔を見せていた。勉強会が終わる時間を見計らってツーリングやカラオケの誘いに来る者もおり、ただし暇だからと押しかけてくる万次郎や一虎は、そうした配慮が見られず騒ぐので出禁になった。
 そしてイザナがその勉強会に行くのは決まって佐野家に呼ばれた時だった。万次郎とイザナ、そして大寿の殴り合い━━卍天黒大決戦━━後、イザナは不定期に佐野家の食事に呼ばれるようになっていた。万次郎から東京卍會幹部として集会に参加しているイザナのことを聞き、約束したのに。とエマが唇を尖らせたからだった。会いに来てくれないんだ。約束したのに。迎えにきてくれるって。
 ——約束だ。エマ。
 幼き日の約束を、イザナも忘れてはいなかった。
 とはいえ約束は破るものだ。
「は?」
 東京卍會の集会後、万次郎に家に来ないかと誘われて、イザナが反射的にこぼしたのがこの一文字だった。言葉ですらなかった。
 真一郎を兄と思っているように、エマもイザナの妹だ。しかしそれとこれとは別だった。端的に言えば面倒だった。万次郎を見ていれば佐野家の雰囲気も察せられる。
 記憶の中の小さなエマと、出会った頃の真一郎。そして現在の万次郎とイザナがドラマの一場面のように一緒の食卓を囲むところを想像して、鳥肌が立った。素直に無理だとイザナが告げれば、笑顔だった万次郎の機嫌が急降下した。
 機嫌の悪い万次郎ほど厄介なものはない。その為イザナは咄嗟に先約があるんだワ。と続けた。
 鶴蝶とメシ食いに行くんだよ。と。
 そんな約束はなかった。
 だが余程のことでない限り、イザナの言ったことには従う鶴蝶だ。イザナが約束をしたと言えば適度に話を合わせることもしてみせる。そして万次郎は龍宮寺が諌めることもあって、自分より歳下の者に我儘は控えめだ。
 であれば鶴蝶を出せば万次郎は引き下がる。
 そう考えたのが浅はかだった。
「じゃあ鶴蝶も来れば良いじゃん」
「は?」
 先程と同じ音が出た。イザナが顔を顰めるのにも構わずに、万次郎はくるりと体を回転させると武藤と話していた鶴蝶を捕まえた。
「鶴蝶」
「うわっ」
 背中に飛びかかられて鶴蝶の身体が揺れる。だが揺れただけで、その場から動くことも体勢を崩すこともしなかった。
「どうした?」
 基本的に、鶴蝶は年上相手でも口調が変わらない。東京卍會へ入った頃は万次郎や龍宮寺達、親しくない幹部には外向きの言葉で喋っていたが、その度に灰谷兄弟がからかうので見かねた龍宮寺から許可が出た結果だった。
 鶴蝶を見てにっこりと笑う万次郎に、先に面倒ごとを悟ったのはイザナと目を合わせた武藤だった。
「今日うちにメシ食いに来いよ。決定な」
「は?」
 図らずも、鶴蝶が発したのはイザナと同じ一文字だった。丸い頭の上にクエスチョンマークが見えるようだ。
「イザナとメシ行く約束してンだろ。でもエマがイザナに会いたがってるし、なら一緒にうちに来れば解決じゃん」
「メシって」
 鶴蝶がイザナを見た。二人の視線がかち合った。万次郎の後を追ってゆったりと歩いてきたイザナの顔を見て、鶴蝶は何かを悟ったらしい。
「いや、約束はしていない」
「テメェ……」
 鶴蝶はきっぱりと言った。イザナは隠すことなく舌打ちをした。
 余程のことでない限り、イザナの言ったことには従う鶴蝶だ。つまり余程のことであればイザナの命令を突っぱねるし諌めもする。
 鶴蝶にとって今回の事態は余程のことであったらしい。オレを巻き込むな。と顔に書いてある。しかし万次郎は鶴蝶の言葉こそを嘘だと感じたらしい。総長命令が聞けないのか。などと言い始めた。
「そういうのは事前に日時を決めておくものじゃないのか?」
 困惑する鶴蝶を見かねたのか、武藤が援護に回る。だが万次郎がその程度で引き下がるわけがない。イザナは誰かに龍宮寺か三ツ谷を引っ張って来させれば良かったとようやく気付くも遅かった。
「うちでは決めてたけど、イザナが逃げると思って言ってなかったンだよ」
「そうか……」
 名案だっただろ? とでも言いたげに笑われて、武藤が眉間に手をやった。確かに事前に告げていれば、イザナは集会後にふけていただろう。
「でもそれって家族水入らずってやつだろ。そんな場所にオレが行っても真一郎君達が困るし、今からオレの分のメシ用意するのも手間だぜ」
「オレや真一郎が他のヤツら連れてくことも多いし、今回もタケミっちか誰か一緒に捕まえてくるかもって話してたから大丈夫だ」
 そう告げた万次郎はやはり笑っており、彼の中ではすでにイザナと鶴蝶が家に訪ねて来るのは決定事項になっていた。
 武藤がゆるく首を横に振って鶴蝶の肩を叩いた。
 その後からだ。イザナと鶴蝶が定期的に佐野家の夕食に呼ばれるようになったのは。
 元々、佐野家は万次郎の言う通り出入りの多い家である。真一郎も万次郎も友人が多く、エマが日向や柚葉、他の同級生を連れてくることもある。さらには道場に通う子供達のために、毎年七夕の時期には万作が流しそうめん会を開いていた。
 つまり佐野家の人間は、全員が人と一緒にいるのが好きな性質なのだ。
 であれば真一郎が弟と、万次郎とエマが兄と認めるイザナが呼ばれるのも、一度や二度で済むはずがない。根が明るく懐っこい鶴蝶もすぐに気に入って、イザナとセットで扱うようになっていた。
 そしてイザナと鶴蝶も、最初は嫌々ではあったがその空気感が嫌いではないと内心認めざるをえず、また単純に一食分の食費が浮くのも魅力的で、誘いに首を縦に振る頻度は次第に増えていった。
 鶴蝶の受験が近づき自分で自分の食事を用意をするのも億劫になっていたなら尚更だ。



「コーヒーでも飲むか?」
 勉強会の後、イザナが鶴蝶を迎えに来ても驚かれなくなったのは最近のことだ。リビングにいるのは終了予定時刻を過ぎてもテーブルに齧り付いている者が半分、帰り支度をしていたり、疲れたと言って上半身をテーブルに懐かせていたりする者がもう半分。
 鶴蝶は九井に何かを聞いているようだった。
 玄関からソファまで案内されたイザナは大寿の問いには答えずに、後何分くらいかかりそうだ? と聞いた。その視線の先を追い、九井と鶴蝶に目を向けた大寿は、長くて二十分くらいだな。と答えた。
「ならいい。飲み切れなさそうだワ」
「そうか」
 頷いた大寿はイザナの向かいに座った。ローテーブルの上には大寿の手の大きさにぴったりな、青地に白で海の生き物と思われるイラストの描かれたマグカップと、付箋の貼られた一冊の参考書が置かれていた。マグカップを手にしたところをみると、大寿の今日の仕事は終わったのだろう。それでも残っているのは八戒や柚葉のためか、あるいは単純に今も問題を解いている者達のためか。質問があればいつでも答えてくれると、鶴蝶が以前言っていたのをイザナは思い出す。
 イザナは手持ち無沙汰に携帯を見た。望月と斑目からのメールが入っていたが、返信するまでもない内容だった。天気を確認し、携帯をポケットにしまう。コーヒーをもらっておけば良かったと思ったところで、大寿から声をかけられた。なんだと顔を上げれば、大寿が口を開いた。
「鶴蝶が人をよく見ているのは昔からか?」
「知らね」
「そうか」
 イザナはあっさりと応えた。大寿は頷いた。
「いきなりなんだよ」
「いや、リスニングの練習の為に音読をさせていたんだが、俺が手本に読んでやってる間、アイツだけが教科書の文字を追わずに俺の口元を見てたんでな。誰かに習ったことがあるのかと思っただけだ」
「ああ」
 なるほど。と今度はイザナが頷く番だった。孤児であれば大なり小なり大人の顔色を伺う癖が付く者は多いが、鶴蝶のそれが他の子供達の視線と性質が違うことには気付いていた。
「喧嘩も最初はオレにくっついてきて見てただけだったからな。昔っから背だけはスクスク伸びてやがったが、それでもこーんな小せえのがオレらの喧嘩に混じれるわけがねぇ」
 イザナは手で当時の鶴蝶の身長を示した。子供の四歳差は大きい。今でこそ身長は逆転されたが、イザナと出会ってしばらくは、まだまだ鶴蝶の方が小さかったのだ。
「それでも見てるだけだったガキがすぐに喧嘩屋なんてあだ名付けられて、最後は横浜中に知れ渡ったくらいだ。その頃の癖が残ってんだろ」
 喧嘩屋の名が売れたのは、竜胆とヤクザの事務所をひとつ潰してみせたことも大きいのだろうが。あの件は一時横浜中の不良の話題をかっさらった。報復があまりなかったことだけが不気味であったが、ガキ二人に事務所ひとつ潰されたという汚点が知れ渡ることを恐れたのだろうと結論付けた。
「確かに、アイツの喧嘩はオマエの影響が大きいな」
 大寿がもう一度鷹揚に頷いた。
「オマエをよく見ている」
「知ってる」
 下僕が王を伺うのは当然だ。先程までとはニュアンスの違う言葉にも、イザナは間髪入れずに応えた。大寿は若干呆れたように鼻を鳴らしたが、それ以上言葉を紡ぐことはしなかった。
「イザナ、終わったぜ」
 二人の会話が終わるのを見計らったように、帰り支度を終えた鶴蝶がイザナに声をかけた。
「タケミチもマイキーに用があるらしいけど、一緒に連れてって良いか?」
「良いけど、そいつ今日バブ乗ってきてんのかよ」
「オレの後ろに乗っけるから良いだろ」
「すんません……」
 東京卍會が解散しても、免許を取るまでバイクを辞めるものは少なかった。鶴蝶と武道も類に漏れず、警察の目を掻い潜っては乗っている。ちなみにイザナは最近車の免許を取ったばかりだ。
「あと、途中でスーパー寄っても良いか? 真一郎君から味噌買ってきてって連絡が来た」
「オマエらだけで行けよ」
「ビールも頼まれてんだよ。イザナいた方が買いやすいだろ。荷物もあるし」
 イザナも童顔ではあるものの、武道と鶴蝶はまだ幼さが勝つ。法改正が進み、年々未成年の酒の購入は難しくなっていた。
「イザナの好きな銘柄買って良いってよ」
「……仕方ねえな」
 イザナは渋々立ち上がった。武道が大寿に目を向ける。
「今日もありがとうございました」
 武道と一緒に、鶴蝶も軽く大寿に頭を下げる。大寿はチラリと二人を一瞥した。
「補導されねえようにな」
「うす。オマエらもまたな〜」
「おー次は遅刻すんなよ」
「鶴蝶もまたな〜」
「事故んなよ」
 各々好き勝手に声をかけてくる者達に手を振って、武道と鶴蝶は先に玄関へと向かっていたイザナに追いついた。
 鶴蝶の荷物は無理矢理リュックごと武道のものに入れ、バイクに跨ったところで佐野家の近所のスーパーに寄ることに決まった。全員が何度か行ったことがあり、陳列棚の並びを覚えている為だ。
 慣れた道を走っていく。前を行く車の赤いテールランプを見ながら、イザナは真一郎が己ではなく鶴蝶に買い物を頼んでいたことをぼんやりと考えた。
 少しだけ、胸にわだかまりが生まれていた。
 昔は、ちゃんと調べた癖に、自分の口から真実を告げなかった真一郎に思うところがあったものの、マイキーと二度やりあってからはそのもやもやも消えている。真一郎とも昔とは違った距離感でお互いストレスのない関係性を築けている。
 であればこのわだかまりは何かと言えば、単純に己以外の者が鶴蝶に命令したのが気に入らないのであった。
「……ダセぇ」
 脳裏に児童養護施設で見た、仲の良い相手が別の子供と遊んでいただけで泣いていた、ちいさな子供の姿が浮かぶ。
 天竺では早々に鶴蝶が他の四天王をのしたため、パシリに使おうという者はいなかった。東京卍會でも自分の隊以外の副隊長に命令するような隊長は少なく、副総長の龍宮寺や総長代理の武道も他人を顎で使うような性格ではない。唯一万次郎だけが鶴蝶にも我儘を言うが、その場合、佐野家での夕食を勝手に決められたようにイザナも巻き込まれているのが常だった。
 王と下僕。
 イザナと鶴蝶の関係は、出会った時に自分たちで決めたものだ。しかしながら天竺を失い東京卍會が解散した今は、少しずつ別の関係性に変わりつつあるのも感じていた。鶴蝶が進学を決めたので、これから先、その変化が加速することも分かっていた。
 けれどその変化をどう受け止めれば良いのか、いまだイザナは決めきれぬまま。
 目的地であるスーパーが見えたので、イザナは一旦考えることを辞めてしまった。



 買い物はすぐに終わった。佐野家で使っている味噌のメーカーどころか赤か白か出汁入りかすらイザナは知らなかったが、鶴蝶は台所で見た。と躊躇いなくレジカゴに放り込んでいた。ビールは少し高めの黒を半ダース。普段は軽めのものを好むイザナだが、真一郎の金と思えばたまには良いかと思ったのだ。武道はビールを選ぶイザナの手元を覗き込みながら、それうまいっすよねえ。その隣も捨てがたいっすけど。などと言っていたが無視をした。ついでにつまみもいくつか買った。
 イザナはバイクに乗る際必要最低限の物をポケットに詰めるだけなので、荷物は鶴蝶と武道のリュックに分けて、バイクを運転するイザナと武道が背負うことになった。もちろん重い方を背負うのが武道だ。それでもバイクまでリュックを背負ったのは鶴蝶だ。小さなスーパーなので入り口は一箇所のみで、外から店内が見えるようにガラス張りになっているわけでもない。故に駐車場は暗かった。街灯はあるが、三人がバイクを停めていた位置から近い街灯の電球は切れていた。
 バイクのすぐそばに三人がスーパーにやってきた時にはいなかった軽自動車が停まっていた。最近よく見かける車種だった。不注意でバイクを倒されたり、車にぶつけられたりしては困るからと、わざと少し入り口から遠い位置に停めたのにな。と息を吐きながら、イザナは己のバイクの前まで行くと、リュックを受け取る為に鶴蝶に手を伸ばした。車に背を向けた鶴蝶がリュックを下ろす。
 その時だった。
 鈍く弾けるような轟音がした。
 一瞬、タイヤのバーストがすぐ近くで起こったのかと思った。しかし違うと気付いたのは、鶴蝶の手からリュックが落ちて、その肩から赤く噴き出すものがあったからだ。
 拳だろうが鉄パイプだろうがコンクリートブロックだろうが、殴った傷から血が噴き出ることは滅多にない。故に鶴蝶の身体から溢れたそれを、イザナが血と認識するのにわずかな時間が必要だった。
「ッ……!」
 イザナの視線の先、軽自動車の窓から薄く白い煙が上がっていた。イザナの身体が動いたのは無意識だ。しかしそれより先に、鶴蝶が地面を蹴っていた。
 ドン。と、己の胸元から音がした。伸ばされた鶴蝶の手が、イザナを横へ突き飛ばしたのだ。重なるように二度三度、轟音が再度静かだった夜空に響く。
「……は?」
 イザナを突き飛ばした鶴蝶の身体が人形のように倒れていく。普段ならば無意識で行う受け身すら取ろうとしない。頭が、そして次に胴体が、地面に打ち付けられて小さく跳ねた。
「カクちゃん!」
 武道の声に重なるように、車のエンジン音がした。軽自動車が発車する。写真を撮らねばと思うのに身体が動かない。救急車を呼ぶ武道の声がどこか遠い。尻もちをついたイザナのジーパンに、鶴蝶の手が引っかかっていた。蘭のお下がりのコートの袖口に、小さな白い粒が降ってくる。
 それを見て。
 ああ、今夜は雪だったかと、イザナは場違いにも、そんなことを考えた。



 イザナが鶴蝶の病室に入ることが出来たのは、長時間の手術が終わってさらに一日経ってからのことだった。
 病院の面会受け入れ体制が整うまでに時間がかかっただけでなく、イザナ達の事情聴取にも時間がかかったからだった。
 銃が使われたのだ。警察も慎重にならざるを得ない。また三人はいわゆる『非行少年』だ。たとえ東京卍會が解散し、その頭に元が付いていたとしても、警察の印象は決して良くはない。さらにイザナは一目でルーツが国外にあると分かる。武道と比べてイザナの取り調べに長い時間がかかったのは、決して年齢を加味したからだけではないだろう。
「撃たれたのは元天竺の喧嘩屋か」
 取り調べ室で、まるでこうなっても仕方ないとでも言うようにそう吐き捨てた記録係の警察の顔をイザナが殴らなかったのは、ひとえに早く病院に向かいたかったからだ。取り調べ役の方はその言葉を注意していたが、イザナの口がますます重くなったのは言うまでもない。
 警察がある程度鶴蝶を打った相手の目星がついているのに、必要以上にイザナを拘束していたのも口の重さに拍車をかけた。
 天竺の喧嘩屋がヤクザの事務所をひとつ潰した過去は、すぐに横浜から現地の警察に共有されたようだった。
 卍天黒大決戦は。
 大層な名前が付いていても、所詮は子供の喧嘩である。不良共が拳一個で日本のトップを決める祭りであって、いくら名のある不良やハズレ者がいたとしても、銃の出る幕はない。
 そんな子供一人の報復に銃を使ったのは見せしめか。
 どうやら水面下でヤクザの関係する諍いが起きているらしい。とは、警察から出てすぐのコンビニに寄った際、かかってきた電話で知ったことだった。
 かけてきたのは斑目だった。斑目によると、少年院で同室だった男がちょっとした儲け話に首を突っ込んで、抜けるに抜けられなくなっているらしい。鶴蝶が事務所ひとつ潰したヤクザの絡んだ揉め事で、鉄砲玉をやらされそうになっていた。少年院で知り合った斑目に泣きついてきたものの、斑目はすでにその手のことから足を洗っている。巻き込まれる前に情報だけを『穏便に』聞き出して、斑目の連絡先を全て携帯から消去してもらった後、お帰りいただいたということだ。
「オレがバカだから騙せると思ったンだと」
 そう笑う斑目の声には隠さぬ怒気が含まれていた。斑目は己がバカであると知っているが、それをイザナ以外から指摘されることには強い拒否感を示す。
「鶴蝶、撃たれたんだって? どうする? 仕返しする?」
「やめとけ。『仕返しナシ』なんて甘いルールがある祭りじゃねンだ。仕返しにさらに仕返しされてきりがねぇ」
「でもよ」
「もう天竺も東京卍會もねぇんだワ」
 イザナはきっぱりと言った。
「足洗ったンならけじめ付けろ。それでも腹に据えかねてんならその元同室の連絡先、オマエ消してねぇんだろ。蘭と竜胆あたりから警察に流しとけ。部外者にベラベラ喋るような口の軽いヤツだ。警察にも同じだろうよ」
 だからこそ斑目も報復はないだろうと踏んで逃したのだろうが。なにせ口が軽い者ほど嫌われる。情報を漏らしたことを隠して誰かの手を借り斑目に報復するのはリスクが高い。
 ヤクザもバカではないからトカゲの尻尾かもしれないが、しかしこれでイザナや武道達からの注意も逸れるだろう。
 斑目からの電話を切った後、もしもに備えて武藤と望月、そして灰谷兄弟にもメールで釘を刺しておく。武藤と望月からはすぐに返事が来たが、灰谷兄弟からはなく、竜胆にはオマエも危ないからしばらく大人しくしとけと告げて後に、蘭からは鶴蝶の入院先を送ってようやく返事が来た。
 明日行く。と、普段の饒舌が嘘のように短いメッセージは蘭からだった。
 警察の事情聴取が終わったら連絡しろと真一郎には言われていたが、イザナはそのまま携帯電話をポケットにしまい、己のバイクに跨った。夕日はまだ山の端にあった。一昨日チラついた雪はすでに溶けて、昼の晴れ間に跡すら残っていない。
 エンジンをかけ、発車する。
 向かう先は決まっていた。



 病院に着いたのは面会時間が終わるギリギリの時間だった。患者との関係を書く欄には嘘を書いたが、それを警備員と事務員が気がつくことはなかった。未成年であるので鶴蝶は小児病棟にいた。一人部屋だ。看護師達の視線を追い、彼らの注意がイザナからそれた隙に、鶴蝶の部屋に身体を滑り込ませた。
 白く光る蛍光灯の下、部屋にはカーテンのかかったベッドがあった。
 近づいて、カーテンに手を伸ばす。その手が震えていたのは見なかったことにした。
 果たして。
 カーテンを開いた先に、鶴蝶はいた。入院の手続きをしたという真一郎から意識は戻ったと聞いていたが、その口には酸素マスクが付けられており、瞼は閉じていた。眉間には皺がよっている。痛みがあるのだろうか。とイザナは思った。
 あるのだろう。焼けるような痛みのはずだ。
 銃で撃たれたことなどないはずなのに、イザナにはそんな確信があった。
 鶴蝶に目を向けたまま、枕元に置かれていた丸椅子に腰掛ける。口の中がカラカラに乾いていた。
「  」
 自分でも情けなくて笑ってしまうほどに、声は掠れて音にならなかった。それなのに、鶴蝶の瞼が震え、目が開いた。
「ィ、ざな」
 鶴蝶が言った。掠れた声だが確かに聞こえた。イザナは瞬きすら忘れて鶴蝶を見た。
 ━━イザナ。
 どうしたんだ? なんでそんな顔してるんだ? また手紙の返事が来なかったのか? オレが取りに行ってやろうか? 院長先生が隠してるかもしれないだろ。それとも他に何かあったのか? カチコミか? イザナ。教えてくれ。どんなところでも、オレが。
「オレが、一緒にいく。から」
 イザナは息を飲んだ。
 白い雪を見た気がした。
 イザナは。
 イザナは万次郎が訪ねてくるまで、ずっと真一郎の訪れを待っていた。心待ちにしていた。たとえ心のどこかで己と彼の血の繋がりがないことを分かっていたとしても、真一郎を信じていたかった。己が孤独ではないと、彼の言葉だけが支えであり。
 けれど、確かに彼を忘れることもあったのだ。
 それは例えば施設の隅で小さな墓を作る鶴蝶を見つけた時だった。あるいは鶴蝶と、かまくらの中で己の国を造ると決めた時だった。
 イザナは口を引き結んだ後、その口の端を上げた。
「そんなの、決まってるだろ」
 イザナは言った。
「オレらの国だ」
 イザナの応えに、鶴蝶が目を見開いた。そして破顔する。
「ああ。いっしょ、に」
 鶴蝶の手が伸びて、力尽きたように落ちた。実際、限界だったのだろう。手術が済んでまだ数日も経っていない。麻酔を使うことの出来る時間は限られているはずなので、痛みも絶えず襲いかかっているはずだ。運良く主要な臓器は無事であり、合併症の心配もなかったと聞いているが、出血が酷く一時は生死の境を彷徨った。
 鶴蝶の手をイザナは握ってやる。
 これからのことを思った。
 鶴蝶はまだ未成年だ。十八にすらなっていない。本来ならば児童養護施設にいて、大人の庇護下にいなければいけない歳だ。以前いた施設に戻るならばまだ良い。けれどあの施設はイザナが暴力で丸め込み、イザナを保護者として鶴蝶を一人暮らしさせた前科がある。行政にはうまくごまかしただろうが、今回もその手が通用するとは思えない。鶴蝶は少年院こそ入っていないが、不良達の間で喧嘩屋と呼ばれ、ヤクザの事務所をひとつ潰したことも広く知られてしまっただろう。
 非行の原因だとイザナと遠く引き剥がされるかもしれない。
 そう考えて、イザナは己の背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 ━━オレが、一緒にいく。
 鶴蝶はそう告げた。
 であれば、と考えて、イザナは内心首を振った。
 イザナは王だ。その決定は下僕の決定でもあった。そもそも鶴蝶が行くのは天竺だ。そここそが鶴蝶の居場所であり、ならば一緒に。という言葉も己の望みなのだと感じながら、イザナは鶴蝶の手を握りしめた。
 イザナが再び鶴蝶の見舞いに病院を訪れたのは、それからしばらく経った頃だった。
 病室に現れたイザナを見て、鶴蝶はあからさまに目を輝かせた。
 その頃には鶴蝶の酸素マスクも外れており、一人部屋から大部屋に移動となっていた。まだ一人で起き上がることは困難であるものの、食事も取れるようになっており、医者も驚く回復速度であったが、本人はもっと早く治したいと愚痴を溢しているという。
「イザナ!」
 ベッドに備え付けられたテーブルに本を起き、片手ページをめくっていた鶴蝶に、イザナは軽く手を上げた。
「思ったより元気そうだな」
「それ、さっき来た大寿達にも言われたな。こんだけ元気なら勉強会にもすぐに参加できるだろって」
「アイツらしいな」
 丸椅子に腰掛けて、イザナは見舞いの品だろう菓子箱を開ける。包装紙からして高そうだったが、構わずビリビリと破いてやった。出てきたのは小分けパックに入った日持ちしそうなクッキーだ。
「賞味期限三ヶ月以上あるから治ったら食えば良いってさ」
「ふうん」
 おもむろにひとつ取り出して齧り付く。イザナの横暴さには慣れたもので、鶴蝶は一応文句を言ったものの、イザナを止めることはしなかった。
 サクサクと噛み砕けばバターの香りが口いっぱいに広がった。中身のなくなった小分けパックを机の上に置けば、足元にゴミ箱あるだろ。と鶴蝶が言う。見れば確かにゴミ箱があった。普段なら鶴蝶が勝手に捨てるが、今日ばかりは撃たれた方の肩側に置かれていたので口に出したのだろう。イザナは黙ってゴミを捨てた。
「どうかしたか?」
 イザナの視線に気がついたのか、鶴蝶が首を傾げた。一瞬、先日の事を覚えているかと問おうと思ったが、やめてしまった。覚えていてもいなくてもどちらでも良かったからだ。
 どちらでも、イザナの決定が覆ることはない。
 けれどイザナはあえて聞いてみることにした。
「なあ」
 イザナが呼びかける前から、鶴蝶の二色の瞳にはイザナが写っていた。
 それを見て、イザナは笑い出したい気分になった。イザナの顔にうっすらとした隈が出来た理由を、鶴蝶を己のそばに置き続けるために、イザナがここしばらく走り回っていた事を、鶴蝶が知る由もない。
 イザナが佐野家に頭を下げたことも同様だ。一生知らない、知らぬままでいい事だった。
 知らぬままでも、この下僕は一生イザナを見続けているのだから。
 イザナは口を開いた。
「オマエ、オレの計画に乗るか?」
 オレらの国を創る計画だ。
 そう告げれば、鶴蝶は目を見開いた後、破顔した。
 答えはやはり、分かりきったものであり。
 イザナは窓の外を見た。
 窓の外では雪がちらつき、明日の朝には一面の、新しい世界を描くことの出来る、銀世界を創るだろうと思われた。▲たたむ

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