No.3343

佐野家の話



「ただいまー」
 家を出て何年も経つのに、万次郎はいまだに実家の敷居を跨ぐ時、ただいまと言ってしまう。しかし間髪入れずに家の奥から「おかえりー」と緩やかな返答があるので、しばらくは別の言葉を探さずに済むだろう。夏らしい白いTシャツにジーンズという、高校の時から変わらぬ姿で万次郎を出迎えたのは真一郎だ。彼は咥えタバコを携帯灰皿に押し付けて、バックパックを背負い、小さな紙袋を下げただけの万次郎の姿に小さく首を傾げてみせる。
「堅は?」
 その言葉に苦笑して「一回家帰って、エマと一緒に来るってさ」と返し、手に下げていた土産を渡す。
「仏壇に供えといて夜食べよう」
 カラフルな、名前もよくわからない菓子はエマのリクエストで買ったものだ。
「ご先祖様達だってたまには新しい味を食べてみたいに決まってるって」という言葉に「食べたいのはオマエだろ」と返しつつ、短い空き時間を縫って買ってきたものだ。万次郎にだって、妹を甘やかしたいと思う時はある。彼女の冷たくなっていく体温を覚えているなら尚更だ。
 真一郎は紙袋の中を興味津々といったように覗き込んだ後「変な名前の菓子だな」とひとりごちた。フランス語で書かれた菓子の名前を真一郎が読めるはずがないと万次郎は反射的に思ったが、滅多に食べない菓子の名前を真一郎が無理矢理ローマ字読みしていようと害は無い。万次郎はあえて訂正せずに、頬を流れ落ちる汗を雑に拭いながら「そうかもね」とだけ告げた。
「お茶ある?」
「冷蔵庫に昨日の夜沸かした麦茶入ってるからそれ飲めば? 台所の机の上にたい焼き置いてあるから食べて良いぞ。スーパーで売ってたやつだけど」
「やった。あんこ?」
「あんことカスタードとチョコと抹茶。エマと堅の分もあるから全部食べるなよ」
「わかってるよ」
 言いながら、居間にバックパックを投げて台所へ向かう。
 冷蔵庫を開ければ、申し訳程度に入っている野菜と大量の肉、そしてビールの缶と対面した。万次郎は思わず真一郎に問いかけた。
「シンイチロー。今日の夕飯って焼肉?」
「そー。オマエら帰ってくるから良いもん買えってじいちゃんが」
「じゃあプレート押入れから出すか」
「エマ帰って来たら病院行くしその後でもいいんじゃね?」
「帰って来てすぐ食べれた方が良いだろ?」
 言いながら、万次郎は病院までの道のりに思いを馳せた。万作が入院したのは一ヶ月前のことだ。ちょっとした不調から腎臓の病が見つかり、手術に至った。様々な要因で入院生活が長引いていたが、1週間後には退院できると聞いている。
 万次郎は思わず告げた。
「退院まで居れなくてごめん」
 思わず告げた言葉に、仏壇にお菓子を供え、台所にやって来た真一郎が目を見開いた。
 毎年お盆の時期に万次郎は休暇を取り実家に帰って来ているが、それも今年は海外でのレースに備えて数日しかまとまった時間を取ることしか出来なかった。万作の入院の手続きも全て真一郎が店を休業して行い、エマも有給を取って手伝っていたのは知っていたが、万次郎にできたことといえば通販で脱ぎ着しやすいパジャマや下着を買ったくらいのことだ。
 真一郎が新たなタバコを取り出し、火を点ける。
「いーよ。オマエらの仕事の方が大事だってじぃちゃんも言ってたし」
 しかしオマエも大人になったなあ。なんてことを言われ、万次郎は少しだけ顔を顰めたが、言い返すことはせず、コップに注いだ麦茶を飲んだ。それは万次郎が学生の頃と変わらぬ味がして、そういえば料理はさほどしなかったけれど、麦茶は毎日真一郎が沸かしていたな。と万次郎はそんなことを思い出した。

▲たたむ

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