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#ソンエリ
(再掲)
絶えず水の音が響き続ける宿舎の共用スペースで、アヴドーチャはタイプライターから視線を上げた。ゼルウェルツァの『どでかい水たまり』が再現されたこの場所は、アヴドーチャの数少ないロドスのお気に入りの場所であり、また彼女が心から落ち着ける場所でもある。
天井に取り付けられた布の波紋を眺め、アヴドーチャはひとつ息を吐いた。ミドルテーブルと背もたれのしっかりとしたソファは、執筆を進める彼女の為にとドゥリンたちが用意してくれたものだ。暇な日には手を止めてドゥリンと子供たちが水遊びするのを見守っていることも多いが、今はそうもいかない。なにせ締切が近いのだ。そうでなければ日付変更線をとうに過ぎたこの時間まで、彼女がこんなところでぐずぐずしているはずがない。
アヴドーチャは机の上に並べた原稿を睨み付けた。
彼女が今回取り掛かっているのは、一ヶ月後に控えたバレンタインイベントのキャッチコピーだ。国によっては恋人達が楽しむ側面が強いイベントだが、今年のロドスでは極東出身であるウタゲの提案で、恩になった人達や友人同士でチョコレートを贈りあったり一緒に楽しむイベントとなった。
種族も出身地も、信仰する宗教も違う者たちが暮らすロドスである。各々の文化や風習は重んじられるが、一方で他者と暮らす為に譲歩もする。最近はなにかと忙しかったが、ちょうど一息ついた時期でもある。つまりはみんな息抜きが欲しかった。そこで恋人達のための。という側面は保ち、宗教的な面を重じる者達への強要はなしとしつつ、多くの者達が楽しめるような方向性が決まるまで、さほど時間はかからなかった。
そしてお祭り騒ぎかつお酒を楽しめる機会をドゥリン達が見逃すはずがない。
彼らは積極的にバレンタインイベントに関わりたがり、チョコレートビールを何種類か作ると言い出した。そして彼らと共に過ごすことの多いアヴドーチャにもそれらの酒のキャッチコピーの作成という役目が割り振られ、彼女が頭を悩ますこととなったのである。
なにせ彼女が長く暮らしていたゼルウェルツァにはバレンタインの風習がない。ウルサスにはあったものの、それらはアヴドーチャにとって、まだこうしたイベントごとに持ち出すにはいささか抵抗のある記憶である。さらに今回は『みんな』へ向けたキャッチコピーと『恋人達』へ向けた2種類のキャッチコピーを用意しなければならない。一種類の酒に付きひとつのキャッチコピーで良いじゃないかと思われるかもしれないが、どうせならアヴドーチャはロドスにやってきた彼らのために全力を尽くしたかった。
ターゲットによって方向性を変え、さりとて統一感は持たせたい。種族も出身地も違う者達にも分かりやすく、尚且つインパクトに残るような……。と悩む彼女の周りには資料となる本が積まれ、ウタゲを始めとした複数人からの聞き取り資料がまとめられている。もちろん、ドゥリン達が作っているチョコレートビールを試飲した際に書いた喉越しや味わい、原材料の記録もある。
彼女はタイプライターから吐き出された紙をなんともなしに手に取った。柔らかな陽光の色をした紙の上には言葉が並べられ、崩され、また別の形にまとまろうとして失敗をしている。部屋から出てこの場所に来たのも、少しは気分転換になればと思ったのだが。とため息を吐いて、アヴドーチャはすっかりと冷めて香りを失ったお茶を一口飲んだ。やはり部屋に戻ろうか。そう考えた彼女の視界の端に、ふとひらめくものが映った。
顔を上げればちょうど共用スペースのガラス張りの扉が開いて、ひとりのオペレーターが現れた。
ソーンズだ。ゼルウェルツァで出会ったリーベリ・エリジウムとよく共にいて、作戦でも一緒の隊になることが多かった為、アヴドーチャがロドスに来てすぐにコードネームを覚えたオペレーターのひとりだった。先程見えたのは彼の着ていた白衣だったらしい。その裾が焦げているところを見ると、おそらくラボにでもいたのだろう。この部屋に来たということは休憩だろうか。彼もまた、実験の行き詰まっているのかもしれない。
「こんばんは。良い夜ですわね」
アヴドーチャはソーンズに喋りかけた。ドゥリンと子供達以外にさほど興味を持てないアヴドーチャだが、スディチ達の度重なる苦言もあって、一緒の隊になったオペレーターに挨拶できるくらいには、ロドスに馴染み、また生活に余裕が出ている。
ソーンズはアヴドーチャに視線を向け、少しばかり眠気の滲んだ顔で、精が出るな。と言った。
「バレンタインに向けた宣伝文句作りか?」
「ええ。ドゥリンの子達がチョコレートビールを作るので、それらを彩るためのキャッチコピーを作っていますの」
「ビールか」
ソーンズはそう呟いて、デスクの上に置かれた紙を一枚手に伸ばした。アヴドーチャは思わず息を飲む。
「触らないで!」
ソーンズの手が止まった。アヴドーチャは慌ててデスクの上に広げていた紙をかき集め、少しばかり眉根を寄せると、申し訳ありません。と謝った。
「未完成のものを人に見せることはしたくなくて……。気を悪くなされないで。あなたが悪いわけではないんです」
「いや、こちらこそ不躾だった」
その言葉にくっきりとした反省の色が見えて、アヴドーチャは眉を下げて微笑んだ。
「謝らないでくださいまし……。バレンタイン、貴方はどなたかとお過ごしに?」
「今取り掛かっている作戦状況次第だな」
話題を変えるための言葉であったが、ソーンズの返答にアヴドーチャは目を瞬かせた。
「そういう自分はどうなんだ?」
ソーンズの問いかけに、アヴドーチャはわずかに口の端を緩ませた。
「わらわはドゥリンの子達と過ごしますわ。ドゥリンの子達がゼルウェルツァのように床で眠ってしまっては困りますもの」
「そうか」
「貴方も、お相手と楽しく過ごせたら良いですわね」
アヴドーチャの言葉にソーンズがわずかに顔を顰めたので、アヴドーチャは首を傾げた。
「何か不快なことを言ってしまいましたでしょうか?」
「いや、お前のせいじゃない。相手の鬱陶しさを思い出しただけだ」
「そんな……。恋人なのでしょう?」
「そうとは言えるが……」
ソーンズは唸るように告げた。
「正直なところ、あいつを疎ましいと感じたことは数え切れないほどにある」
息を飲んだアヴドーチャの言葉を遮って、ただ、とソーンズは告げる。
「任務に出る後ろ姿を見る度に、無事に帰って来い。とも思う」
それが厄介だ。とひとつため息を吐いたソーンズの顔を見て、アヴドーチャは己の頭の中で、言葉が閃くのを感じていた。
バレンタイン当日。
カカオの匂いが充満するロドスでは、誰もがウキウキとした笑顔を浮かべている。アヴドーチャは浮き足立った人たちの間をすり抜けて、宿舎を歩いていた。目的地はソーンズの部屋だ。幸いなことに彼は部屋にいて、呼び鈴を鳴らせばすぐにドアを開け、アヴドーチャを見て怪訝な顔をした。
「ご機嫌よう。本日はこれを届けに来ましたの」
そう告げて、アヴドーチャはソーンズの手に紙袋を押し付けた。
「先日、夜にお話に付き合っていただきましたお礼ですわ。ああ、遠慮はいりません。断らないでくださいまし。ドゥリンの子達の為にたくさん買ったものですし、貰ってくださらないと、こちらも困ってしまいますので」
アヴドーチャの頑なさを感じ取ったのだろう。ソーンズは渋々といったように紙袋を受け取り、口を開いた。
「これは?」
「乾燥いちじくですわ。ゼルウェルツァでは生のいちじくがよく手に入ったのですけれど、ここではそうもいかないでしょう?」
アヴドーチャはそう告げたが、本当はいちじくとクリームチーズのパイに蜂蜜を加えたものを作ろうかと思ったのだ。しかし今日はバレンタインだ。甘いものはチョコレートだけでお腹いっぱいだろうと、日持ちし、携帯食となるようなものを選んだのだ。
「貴方との会話で、キャッチコピー作りがよく進んだことを、感謝しますわ」
そう告げるアヴドーチャに、ソーンズはやはり納得がいかないという顔をしていたが、開きかけた口は別の声によって遮られた。
「あれ、珍しい」
アヴドーチャとソーンズが顔を向ければ、そこにはエリジウムが立っていた。その手には紙袋が携えられている。彼はアヴドーチャとソーンズを見て、そしてソーンズの持つ紙袋に視線を向けると、少し首を傾げてみせた。
「お邪魔だったかな?」
アヴドーチャは首を振る。
「いいえ、今ちょうど用事が終わったところですの。先日、キャッチコピー作りに行き詰まっていた時に少しお話しさせていただいて、そのおかげでうまく仕事が進みましたので、ドゥリンの子達に改めてお礼に行った方が良いとアドバイスを受けまして……。こちらこそ、お邪魔してごめんなさい」
「へえ! ソーンズがキャッチコピーにねえ! そのお話、今度聞かせて貰ってもいい?」
「今日はドゥリンの子達との約束があるので、機会があれば」
「よろしくね! ああ、そうだ。これ」
エリジウムが紙袋の中を漁って、小さな包みを取り出した。
「アイリーニ達に頼み込んで買ってきてもらったイベリアのプロシュート。ビールにも合うと思うから、ドゥリンの子達とどうぞ」
「ありがとうございます」
「さっき僕もドゥリンの子達からチョコレートビールを買ったから、また感想を言いにいくよ」
「伝えておきますわ。きっとみんな喜びます」
では、また。と告げて、アヴドーチャは身を翻した。
背を向けた先からエリジウムとソーンズの声が聞こえる。エリジウムが買ったチョコレートビールの説明をしているようだ。キャッチコピーが良くって。と聴こえて、アヴドーチャの耳がこっそりと後ろを向く。職業柄仕方のないことだと言い訳しながら聞いたキャッチコピーは、あの夜ソーンズと話ていた時に思いついた、恋人達へ向けた言葉だった。
▲たたむ
(再掲)
絶えず水の音が響き続ける宿舎の共用スペースで、アヴドーチャはタイプライターから視線を上げた。ゼルウェルツァの『どでかい水たまり』が再現されたこの場所は、アヴドーチャの数少ないロドスのお気に入りの場所であり、また彼女が心から落ち着ける場所でもある。
天井に取り付けられた布の波紋を眺め、アヴドーチャはひとつ息を吐いた。ミドルテーブルと背もたれのしっかりとしたソファは、執筆を進める彼女の為にとドゥリンたちが用意してくれたものだ。暇な日には手を止めてドゥリンと子供たちが水遊びするのを見守っていることも多いが、今はそうもいかない。なにせ締切が近いのだ。そうでなければ日付変更線をとうに過ぎたこの時間まで、彼女がこんなところでぐずぐずしているはずがない。
アヴドーチャは机の上に並べた原稿を睨み付けた。
彼女が今回取り掛かっているのは、一ヶ月後に控えたバレンタインイベントのキャッチコピーだ。国によっては恋人達が楽しむ側面が強いイベントだが、今年のロドスでは極東出身であるウタゲの提案で、恩になった人達や友人同士でチョコレートを贈りあったり一緒に楽しむイベントとなった。
種族も出身地も、信仰する宗教も違う者たちが暮らすロドスである。各々の文化や風習は重んじられるが、一方で他者と暮らす為に譲歩もする。最近はなにかと忙しかったが、ちょうど一息ついた時期でもある。つまりはみんな息抜きが欲しかった。そこで恋人達のための。という側面は保ち、宗教的な面を重じる者達への強要はなしとしつつ、多くの者達が楽しめるような方向性が決まるまで、さほど時間はかからなかった。
そしてお祭り騒ぎかつお酒を楽しめる機会をドゥリン達が見逃すはずがない。
彼らは積極的にバレンタインイベントに関わりたがり、チョコレートビールを何種類か作ると言い出した。そして彼らと共に過ごすことの多いアヴドーチャにもそれらの酒のキャッチコピーの作成という役目が割り振られ、彼女が頭を悩ますこととなったのである。
なにせ彼女が長く暮らしていたゼルウェルツァにはバレンタインの風習がない。ウルサスにはあったものの、それらはアヴドーチャにとって、まだこうしたイベントごとに持ち出すにはいささか抵抗のある記憶である。さらに今回は『みんな』へ向けたキャッチコピーと『恋人達』へ向けた2種類のキャッチコピーを用意しなければならない。一種類の酒に付きひとつのキャッチコピーで良いじゃないかと思われるかもしれないが、どうせならアヴドーチャはロドスにやってきた彼らのために全力を尽くしたかった。
ターゲットによって方向性を変え、さりとて統一感は持たせたい。種族も出身地も違う者達にも分かりやすく、尚且つインパクトに残るような……。と悩む彼女の周りには資料となる本が積まれ、ウタゲを始めとした複数人からの聞き取り資料がまとめられている。もちろん、ドゥリン達が作っているチョコレートビールを試飲した際に書いた喉越しや味わい、原材料の記録もある。
彼女はタイプライターから吐き出された紙をなんともなしに手に取った。柔らかな陽光の色をした紙の上には言葉が並べられ、崩され、また別の形にまとまろうとして失敗をしている。部屋から出てこの場所に来たのも、少しは気分転換になればと思ったのだが。とため息を吐いて、アヴドーチャはすっかりと冷めて香りを失ったお茶を一口飲んだ。やはり部屋に戻ろうか。そう考えた彼女の視界の端に、ふとひらめくものが映った。
顔を上げればちょうど共用スペースのガラス張りの扉が開いて、ひとりのオペレーターが現れた。
ソーンズだ。ゼルウェルツァで出会ったリーベリ・エリジウムとよく共にいて、作戦でも一緒の隊になることが多かった為、アヴドーチャがロドスに来てすぐにコードネームを覚えたオペレーターのひとりだった。先程見えたのは彼の着ていた白衣だったらしい。その裾が焦げているところを見ると、おそらくラボにでもいたのだろう。この部屋に来たということは休憩だろうか。彼もまた、実験の行き詰まっているのかもしれない。
「こんばんは。良い夜ですわね」
アヴドーチャはソーンズに喋りかけた。ドゥリンと子供達以外にさほど興味を持てないアヴドーチャだが、スディチ達の度重なる苦言もあって、一緒の隊になったオペレーターに挨拶できるくらいには、ロドスに馴染み、また生活に余裕が出ている。
ソーンズはアヴドーチャに視線を向け、少しばかり眠気の滲んだ顔で、精が出るな。と言った。
「バレンタインに向けた宣伝文句作りか?」
「ええ。ドゥリンの子達がチョコレートビールを作るので、それらを彩るためのキャッチコピーを作っていますの」
「ビールか」
ソーンズはそう呟いて、デスクの上に置かれた紙を一枚手に伸ばした。アヴドーチャは思わず息を飲む。
「触らないで!」
ソーンズの手が止まった。アヴドーチャは慌ててデスクの上に広げていた紙をかき集め、少しばかり眉根を寄せると、申し訳ありません。と謝った。
「未完成のものを人に見せることはしたくなくて……。気を悪くなされないで。あなたが悪いわけではないんです」
「いや、こちらこそ不躾だった」
その言葉にくっきりとした反省の色が見えて、アヴドーチャは眉を下げて微笑んだ。
「謝らないでくださいまし……。バレンタイン、貴方はどなたかとお過ごしに?」
「今取り掛かっている作戦状況次第だな」
話題を変えるための言葉であったが、ソーンズの返答にアヴドーチャは目を瞬かせた。
「そういう自分はどうなんだ?」
ソーンズの問いかけに、アヴドーチャはわずかに口の端を緩ませた。
「わらわはドゥリンの子達と過ごしますわ。ドゥリンの子達がゼルウェルツァのように床で眠ってしまっては困りますもの」
「そうか」
「貴方も、お相手と楽しく過ごせたら良いですわね」
アヴドーチャの言葉にソーンズがわずかに顔を顰めたので、アヴドーチャは首を傾げた。
「何か不快なことを言ってしまいましたでしょうか?」
「いや、お前のせいじゃない。相手の鬱陶しさを思い出しただけだ」
「そんな……。恋人なのでしょう?」
「そうとは言えるが……」
ソーンズは唸るように告げた。
「正直なところ、あいつを疎ましいと感じたことは数え切れないほどにある」
息を飲んだアヴドーチャの言葉を遮って、ただ、とソーンズは告げる。
「任務に出る後ろ姿を見る度に、無事に帰って来い。とも思う」
それが厄介だ。とひとつため息を吐いたソーンズの顔を見て、アヴドーチャは己の頭の中で、言葉が閃くのを感じていた。
バレンタイン当日。
カカオの匂いが充満するロドスでは、誰もがウキウキとした笑顔を浮かべている。アヴドーチャは浮き足立った人たちの間をすり抜けて、宿舎を歩いていた。目的地はソーンズの部屋だ。幸いなことに彼は部屋にいて、呼び鈴を鳴らせばすぐにドアを開け、アヴドーチャを見て怪訝な顔をした。
「ご機嫌よう。本日はこれを届けに来ましたの」
そう告げて、アヴドーチャはソーンズの手に紙袋を押し付けた。
「先日、夜にお話に付き合っていただきましたお礼ですわ。ああ、遠慮はいりません。断らないでくださいまし。ドゥリンの子達の為にたくさん買ったものですし、貰ってくださらないと、こちらも困ってしまいますので」
アヴドーチャの頑なさを感じ取ったのだろう。ソーンズは渋々といったように紙袋を受け取り、口を開いた。
「これは?」
「乾燥いちじくですわ。ゼルウェルツァでは生のいちじくがよく手に入ったのですけれど、ここではそうもいかないでしょう?」
アヴドーチャはそう告げたが、本当はいちじくとクリームチーズのパイに蜂蜜を加えたものを作ろうかと思ったのだ。しかし今日はバレンタインだ。甘いものはチョコレートだけでお腹いっぱいだろうと、日持ちし、携帯食となるようなものを選んだのだ。
「貴方との会話で、キャッチコピー作りがよく進んだことを、感謝しますわ」
そう告げるアヴドーチャに、ソーンズはやはり納得がいかないという顔をしていたが、開きかけた口は別の声によって遮られた。
「あれ、珍しい」
アヴドーチャとソーンズが顔を向ければ、そこにはエリジウムが立っていた。その手には紙袋が携えられている。彼はアヴドーチャとソーンズを見て、そしてソーンズの持つ紙袋に視線を向けると、少し首を傾げてみせた。
「お邪魔だったかな?」
アヴドーチャは首を振る。
「いいえ、今ちょうど用事が終わったところですの。先日、キャッチコピー作りに行き詰まっていた時に少しお話しさせていただいて、そのおかげでうまく仕事が進みましたので、ドゥリンの子達に改めてお礼に行った方が良いとアドバイスを受けまして……。こちらこそ、お邪魔してごめんなさい」
「へえ! ソーンズがキャッチコピーにねえ! そのお話、今度聞かせて貰ってもいい?」
「今日はドゥリンの子達との約束があるので、機会があれば」
「よろしくね! ああ、そうだ。これ」
エリジウムが紙袋の中を漁って、小さな包みを取り出した。
「アイリーニ達に頼み込んで買ってきてもらったイベリアのプロシュート。ビールにも合うと思うから、ドゥリンの子達とどうぞ」
「ありがとうございます」
「さっき僕もドゥリンの子達からチョコレートビールを買ったから、また感想を言いにいくよ」
「伝えておきますわ。きっとみんな喜びます」
では、また。と告げて、アヴドーチャは身を翻した。
背を向けた先からエリジウムとソーンズの声が聞こえる。エリジウムが買ったチョコレートビールの説明をしているようだ。キャッチコピーが良くって。と聴こえて、アヴドーチャの耳がこっそりと後ろを向く。職業柄仕方のないことだと言い訳しながら聞いたキャッチコピーは、あの夜ソーンズと話ていた時に思いついた、恋人達へ向けた言葉だった。
▲たたむ
#ソンエリ
再掲
夢と分かる夢を見た。
夢の中でソーンズは不惑を過ぎており、隣にいるエリジウムにも同じだけの過ぎ去った年月がその身体に刻まれていた。
二人が歩いていたのはロドスの中だ。幾度も修繕と改装が繰り返されてはいたが、絶え間ない人の声と、動き続ける機械音は以前と変わることがない。
視線に気付いたのだろう。エリジウムが「どうかした?」と首を傾げたのでソーンズは「これは夢か?」と問いかけた。エリジウムがニコリと笑う。
「夢とも言えるし、そうでないとも言えるね」
ゴポリ。とエリジウムが口を開く度に音がした。
「この世界は幾重にも折り重なり混じり合い、多数の分岐は過去を過ぎ去り未来を追い越している。そして海は折り重なった世界の中で生きるもの死んだものが最後に流れ着く場所だよ。彼らが海の水に溶けて、海の水を飲んだ君に、君の知識から君の望む姿を見せたのではなく、過去あるいは未来を見せているとは思わなかったのかい? 原石が告げる予言のように」
「あいにく、今回が初めてじゃないからな」
笑う相手に、ソーンズはため息を吐いてみせた。
「ケルシーからすでに知識は得ている。お前は過去で、俺はもう未来にいる」
「ああ、なるほど。君の分岐は随分と遠いところにあるみたいだ」
「だから、もう俺が望む夢はとうに見飽きているんだ。お前に頼らなくとも良い」
絶望は、すでに何度も味わっている。
鉱石病。不治の病。ソーンズの親友を蝕むもの。
オペレーターとしてロドスに所属していた彼の時間が少ないことを、もうソーンズはずっと前から、彼を友人と定めた時から知っていた。ふとしたきっかけからスペクターのことを知り、ケルシーに相談をしたことさえある。スペクターに施したことと、逆のことはできないかと。己が海の水を飲んだことを彼女は診断結果などから勘づいていて、そしてソーンズに知識を与えた。同時に選択をするのは自分自身だと突き放されたような、多くを背負う彼女に、新たなものを背負わせたような気もした。
しかしそれらはもう過ぎ去った過去だ。
そしてその頃よく見た夢が、未来でも、あの男が生きている夢だった。
目の前の存在を見る。不惑を過ぎた男の目尻に笑い皺が刻まれている。よく笑う男であった。笑い皺はその証明だ。
「俺はもう、この先を知っている」
「僕はいらない?」
「ああ」
時間と大海の流れは絶えず、そこに浮かぶ人々も、一箇所に留まることはない。
ソーンズの答えに、夢の中のエリジウムは「そっか」と告げた。「残念だね」という言葉に、泡が弾ける音が重なる。
パチン。という音と共に、目が覚めた。
「起きてください、ソーンズ先生」
肩を揺らされて、ソーンズはゆるゆると瞼を開けた。蛍光灯の眩しさに目が眩む。やがて開けた視界に映ったのは。最近ロドスに入ってきたばかりの若いオペレーターだ。
彼はソーンズが覚醒したことを知ると、机の上に小包を置いた。
「お疲れのところすみませんが、お届けものです。サインください」
「……ああ」
一瞬、夢の続きかと思い動きが遅れた。不惑をすぎ知命が見える年になると、どうにも色んなことに区別が付きづらくなって困ると頭を掻きながらペンを持ち宛名を確認してサインを入れれば、若いオペレーターがありがとうございます。と笑った。
そして仕事は済んだはずなのに、彼はソーンズの荷物を指差して「トランスポーターの方からですか?」と問いかけてきた。
「鉱石病患者さんの支援のために、いろんな場所に行ってらっしゃる方からなんですよね」
と、告げるその好奇心が抑えきれない様子に苦笑する。
ロドスが鉱石病の治療のために、さまざまな場所にオペレーターを派遣していることは周知だが、それもまだ全世界とは言い難い。時にはたどり着くことさえこんな場所に出向くこともあり、そうした場合、安全な行路の確保や情報収集のため、所属するオペレーターに情報提供や荷物の搬送を頼むことがある。
そしてソーンズがロドス所属のトランスポーターの一人と懇意で、そのトランスポーターから僻地の様々な品や映像送ってもらっては、ロドス内で共有しているのは有名だ。
「……そうだな。今でもロドスの特殊部隊と兼業しているが、ここ数年はトランスポーター業の方が多いか」
何せ、僻地にも進んで行きたがるやつだから。と告げながら、ソーンズはわざと彼の目の前で小包を開けてやる。そこに入っていたのは、記録媒体だ。
「電波の通じる場所なら通信を寄越してくるが、そうもいかない場所もある。そういう場所は、こうして記録を送ってくる」
─ ─君にも見て欲しいんだよ。
そう笑った男の顔を覚えている。様々な危機を乗り越え、様々な犠牲を払い、それでも完治ができない鉱石病にかかりながら明日を生きる男は、ソーンズが若き頃に見ていた夢の姿などとは全く違う姿で今を生きている。
己の夢を叶えた姿で生きている。
「写っているのは、山か、川か、砂漠か」
あるいは海か、はたまた全く違う景色か。それは蓋を開けるまでわからない。
「見てみるか?」
と聞けば、若いオペレーターはこくこくと首を縦に振る。その姿にやはり笑いながら、ソーンズは記録媒体を己のPCに繋げた。
青い空。白い雲。どこまでも広がる広大な山脈。吐き出した息は白く、昔携えていたものよりずっと軽く作られた旗が、風に揺れる。
戦友からの通信が入り『極地』の名を持つ男は鉱石病の薬を飲み込むと立ち上がった。
その目に映るのは、夢よりも夢のような現実だ。
「さあて、次はどこに行くのかな!」
▲たたむ
再掲
夢と分かる夢を見た。
夢の中でソーンズは不惑を過ぎており、隣にいるエリジウムにも同じだけの過ぎ去った年月がその身体に刻まれていた。
二人が歩いていたのはロドスの中だ。幾度も修繕と改装が繰り返されてはいたが、絶え間ない人の声と、動き続ける機械音は以前と変わることがない。
視線に気付いたのだろう。エリジウムが「どうかした?」と首を傾げたのでソーンズは「これは夢か?」と問いかけた。エリジウムがニコリと笑う。
「夢とも言えるし、そうでないとも言えるね」
ゴポリ。とエリジウムが口を開く度に音がした。
「この世界は幾重にも折り重なり混じり合い、多数の分岐は過去を過ぎ去り未来を追い越している。そして海は折り重なった世界の中で生きるもの死んだものが最後に流れ着く場所だよ。彼らが海の水に溶けて、海の水を飲んだ君に、君の知識から君の望む姿を見せたのではなく、過去あるいは未来を見せているとは思わなかったのかい? 原石が告げる予言のように」
「あいにく、今回が初めてじゃないからな」
笑う相手に、ソーンズはため息を吐いてみせた。
「ケルシーからすでに知識は得ている。お前は過去で、俺はもう未来にいる」
「ああ、なるほど。君の分岐は随分と遠いところにあるみたいだ」
「だから、もう俺が望む夢はとうに見飽きているんだ。お前に頼らなくとも良い」
絶望は、すでに何度も味わっている。
鉱石病。不治の病。ソーンズの親友を蝕むもの。
オペレーターとしてロドスに所属していた彼の時間が少ないことを、もうソーンズはずっと前から、彼を友人と定めた時から知っていた。ふとしたきっかけからスペクターのことを知り、ケルシーに相談をしたことさえある。スペクターに施したことと、逆のことはできないかと。己が海の水を飲んだことを彼女は診断結果などから勘づいていて、そしてソーンズに知識を与えた。同時に選択をするのは自分自身だと突き放されたような、多くを背負う彼女に、新たなものを背負わせたような気もした。
しかしそれらはもう過ぎ去った過去だ。
そしてその頃よく見た夢が、未来でも、あの男が生きている夢だった。
目の前の存在を見る。不惑を過ぎた男の目尻に笑い皺が刻まれている。よく笑う男であった。笑い皺はその証明だ。
「俺はもう、この先を知っている」
「僕はいらない?」
「ああ」
時間と大海の流れは絶えず、そこに浮かぶ人々も、一箇所に留まることはない。
ソーンズの答えに、夢の中のエリジウムは「そっか」と告げた。「残念だね」という言葉に、泡が弾ける音が重なる。
パチン。という音と共に、目が覚めた。
「起きてください、ソーンズ先生」
肩を揺らされて、ソーンズはゆるゆると瞼を開けた。蛍光灯の眩しさに目が眩む。やがて開けた視界に映ったのは。最近ロドスに入ってきたばかりの若いオペレーターだ。
彼はソーンズが覚醒したことを知ると、机の上に小包を置いた。
「お疲れのところすみませんが、お届けものです。サインください」
「……ああ」
一瞬、夢の続きかと思い動きが遅れた。不惑をすぎ知命が見える年になると、どうにも色んなことに区別が付きづらくなって困ると頭を掻きながらペンを持ち宛名を確認してサインを入れれば、若いオペレーターがありがとうございます。と笑った。
そして仕事は済んだはずなのに、彼はソーンズの荷物を指差して「トランスポーターの方からですか?」と問いかけてきた。
「鉱石病患者さんの支援のために、いろんな場所に行ってらっしゃる方からなんですよね」
と、告げるその好奇心が抑えきれない様子に苦笑する。
ロドスが鉱石病の治療のために、さまざまな場所にオペレーターを派遣していることは周知だが、それもまだ全世界とは言い難い。時にはたどり着くことさえこんな場所に出向くこともあり、そうした場合、安全な行路の確保や情報収集のため、所属するオペレーターに情報提供や荷物の搬送を頼むことがある。
そしてソーンズがロドス所属のトランスポーターの一人と懇意で、そのトランスポーターから僻地の様々な品や映像送ってもらっては、ロドス内で共有しているのは有名だ。
「……そうだな。今でもロドスの特殊部隊と兼業しているが、ここ数年はトランスポーター業の方が多いか」
何せ、僻地にも進んで行きたがるやつだから。と告げながら、ソーンズはわざと彼の目の前で小包を開けてやる。そこに入っていたのは、記録媒体だ。
「電波の通じる場所なら通信を寄越してくるが、そうもいかない場所もある。そういう場所は、こうして記録を送ってくる」
─ ─君にも見て欲しいんだよ。
そう笑った男の顔を覚えている。様々な危機を乗り越え、様々な犠牲を払い、それでも完治ができない鉱石病にかかりながら明日を生きる男は、ソーンズが若き頃に見ていた夢の姿などとは全く違う姿で今を生きている。
己の夢を叶えた姿で生きている。
「写っているのは、山か、川か、砂漠か」
あるいは海か、はたまた全く違う景色か。それは蓋を開けるまでわからない。
「見てみるか?」
と聞けば、若いオペレーターはこくこくと首を縦に振る。その姿にやはり笑いながら、ソーンズは記録媒体を己のPCに繋げた。
青い空。白い雲。どこまでも広がる広大な山脈。吐き出した息は白く、昔携えていたものよりずっと軽く作られた旗が、風に揺れる。
戦友からの通信が入り『極地』の名を持つ男は鉱石病の薬を飲み込むと立ち上がった。
その目に映るのは、夢よりも夢のような現実だ。
「さあて、次はどこに行くのかな!」
▲たたむ
ふつうのおんなのこにもどりたい 【第33話】12/5(木)まで無料公開! - COMICリュウ https://www.comic-ryu.jp/21855/
楽園をめざして - ふみふみこ / 第1話 別人 | コミックDAYS
[ https://comic-days.com/episode/255091296... ]
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